二本松という地名を聞くと、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか?
「二本松の菊人形」?「二本松の提灯祭り」?それとも俄かブームになっている「天空の城」と目される桜でも有名な「霞ヶ城」?それとも幕末に勇猛果敢に戦い、戦場に散った若き「二本松少年隊の悲劇」でしょうか。
これだけでも全国に誇れる名所が数多くある、古き風情を色濃く残す城下町である。
それではタイトルの示す通り、私が二本松が今、輝いていると断言したその証拠を書き綴ろうと思う。
「日本三大○○」の多さ
以前、当ブログで取り上げたテーマ記事だが、それでもわかるように、ここ二本松は、日本三大名所の宝庫だ。
1 日本三大菊人形・・・霞ヶ城公園を舞台に秋に開催される
2 日本三大提灯祭り・・・市内の坂道や中心街のロータリーを練り歩く
3 日本三大井・・・日影の井
4 日本三大旗祭・・・木幡の旗祭り
全国にダントツ人気酒
奥の松 ここは何が凄いかというと、日本酒の最高オーソリティである全国新酒鑑評会に
おいて、直近の10年間で9回も金賞受賞という快挙を成し遂げている。今から20
年ほど前、「越の寒梅」などの地酒ブームには目もくれず、利益追求のための方策
は考えずに、地に足をつけた地道な酒造りに没頭した結果、経営危機に陥り、その
後、再建。東日本酒造組合としてリスタートした。その頑固なまでの味へのこだわり
が評価され、全国でも認められた老舗酒蔵である。薄利多売ではなく、毎回実直な
酒造りを貫いているため、数は希少で、幻の酒とも言われるまでになった。ブランド
名ばかりをありがたがる偽日本酒愛好家は一度、本物の日本酒を飲んで味比べを
してみるといいだろう。
大七 ここはあえて全国新酒鑑評会には出品せず、狙いは世界大会。世界最高権威の
モンドセレクションにおいてグランプリを受賞し、欧州諸国の日本酒ブームの火付け
役となった。
特に大七酒造の主力である「大七生もとづくり」は、全国の人気地酒ランキング
で、常にトップ10にランキングするほど。
千功成 千功成(センコウナリ)という銘酒は、旧二本松藩主丹羽公の先の君主、太閤秀
吉の“千成ひょうたん”にちなんで、千成と名付けたのが始まりで、その後、千の
功(いさお)(手柄、勲功、功績)が成るという意味から「千功成」となりました。お祝
の贈物などにも縁起が良く、地酒の中の地酒を誇りとして皆様に喜んでいただけ
る良い酒造りを基本としております。全国区ではないが、地元を中心に愛されてい
る地酒中の地酒と言えます。(檜物屋酒造店のHPより)
http://senkonari.com/kuraken.html#about
全国に大人気の玉羊羹本舗「玉嶋屋」
過去、何度も旅番組やグルメ番組で取材を受けている銘菓。二本松と言ったら「玉嶋屋」の玉羊羹と呼ばれるくらい地元では有名だ。
まず、店構えが素晴らしい。江戸時代の蔵造りの様式を現代に残す、威厳と重厚感漂う風情ある佇まい。実際は、大正7年の本町の大火の後、すぐに立てられた木造建築として登録文化財となっている。
そして一歩店に入れば、甘い香りが食欲を掻き立てる。変わらない味さらりとした甘さ、小豆の風味が特徴。 以下「玉嶋屋」のHPより
昭和12年県知事と軍の依頼により開発されました、いつまでもやわらかい羊羹を戦地の方に食べてもらえるようにゴムに入れる方法を考案しました。最初は日の丸羊羹という名前で販売されましたが戦後再開業のときに軍国主義のイメージを避けるため形と店名から名前を玉羊羹と改めました。日持ちがよくお土産に最適です。5個入500円より。通販で購入できます。お客様への和菓子のおもてなしには最高の銘菓です。
http://tamasimaya.com/index.php
「ほんとうの空がある」智恵子の故郷
高村光太郎の妻となった智恵子の故郷がこの二本松。花霞という大看板が目立つ、旧街道沿いに立つ造り酒屋。そこが智恵子の生まれた場所。そこから当時の地方の女性には珍しく日本女子大学に進学し、絵画の勉強を積んだ。そこで終生の夫・高村光太郎と出会い、東京で暮らすことになった。
しかし、極度のストレスにより精神病を患い、さらには病気に伏すことになる。新婚生活から彼女の死までに至る一部始終を詩に託した「智恵子抄」はあまりにも有名だが、彼女が東京で見た空は「ほんとうの空」ではなかった。そして「東京には空がない」と智恵子はいふ。という名句が誕生した。「ほら あれが安達太良山 そこに見える空がほんとうの空」と言った。何か涙なくしては語れない時代背景だが、彼女を産んだ故郷こそが、ここ二
本松なのだ。彼女の生家は、今でも博物館として当時の姿で保存され、そして、その隣りには高村光太郎記念館が寄り添うように建っている。ぜひ、一度足を運んでいただきたい。
結びに、通常の場合、「二本松」と聞くと歴史の舞台としての姿ばかりが強調される。例えば、戦国時代に伊達政宗に滅ぼされたイメージが強い。陸奥に定着していた二本松氏(城主・畠山氏)は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重・相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(本宮・人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度、二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。
また、幕末期の動乱の折には、会津戊辰戦争で薩長連合の西軍が賊軍の汚名を着せられた会津藩討伐を繰り広げ、ここ二本松藩もまた、圧倒的な武力の前に降伏させられた。その激戦で奮闘したのがまだ10代前半にして戦場に散った「二本松少年隊」であった。彼らの故郷を想い、戦地に赴き、幼き命を散らせた奮闘に思いを馳せる時、涙なくしては語れない。
このような歴史絵巻が繰り広げられたが、当の福島県民には、かつて伊達氏に抵抗した合戦が各地で起きたことすら知らない人が多いと思う。先人達の苦労と犠牲の上に今の平和や地位が築かれていることを忘れてはならないのである。
さて、本日のテーマを多少なりともご理解いただけたと思います。二本松は私の母方の祖父母が暮らした土地柄であり、私も幼少期に何度も行き来した懐かしい場所。「温故知新」ではないが、高校卒業頃から30年ほど疎遠になってしまった場所だが、今では毎年のように墓参ついでに霞ヶ城を訪れているし、20年ぶりに菊人形も見た。昔の想い出が溢れるような印象に残る場所なのだ。
記事作成:12月22日(火)