郡山に住んで半世紀近くが過ぎた。学区が芳山・二中という郡山の中心市街地に住み、町並みの移ろいや変わりようを間近で見てきた私だ。
小学生の頃、郡山駅前や中町・大町周辺を遊び場にしていた私にとって、昔のことを話すのは実に容易いことだ。大学時代の4年間と初任の勤務先だった4年間のみ、郡山を離れたが、実家は市内中心部にあったため、私の中では半世紀以上、郡山にいたようなものだ。それくらい愛着を持っている。
今日は郡山の昔話をしたいが、今は無き映画館とデパートについて語りたい。
「映画館」
昭和30年代頃から庶民の娯楽と言えば「映画」だった。テレビは一般家庭に普及しておらず、専ら映画館に足しげく通い、上原健や赤木圭一郎、石原裕次郎、加山雄三などの二枚目スター、女優でも美空ひばり、原節子、岡田嘉子、吉永早百合などの絶世の美女スターが銀幕を彩った。日活、東映、大映、東宝、松竹など多くの映画会社があったことでも時代背景を窺い知れるだろう。当時は映画館が庶民のよりどころであった。「喜びも悲しみも幾歳月」や「青い山脈」、森繁久弥の「社長シリーズ」「若大将シリーズ」、裕次郎の日活シリーズなどはドル箱だった。私は志村喬主演の「生きる」が好きだった。小津安二郎や今村昌平、黒澤明、山田洋次などの名監督の作品が大ヒットした。
私が生まれた1964年は東京オリンピックが行われ、インフラ整備によって好景気に沸いていた。その後の高度経済成長と池田勇人首相の「所得倍増計画」によって世相的に勢いがあった。テレビが普及し、映画業界が廃れるという皮肉的な結果に終わったが、私が幼少の頃は、その名残で駅前を中心に多くの映画館が存在した。
1 「東宝」
今のアーケード内の富士館ビルにあった。郡山で一番大きかったと記憶している。隣りがワタナベスポーツでそのまた隣りが郡山初の回転寿司「元禄寿司」があった。私は東宝では親に連れられ、「怪獣シリーズ」を何度も見に行った。ゴジラ、モスラ、ガメラなどのシリーズ映画だ。
2 「郡山東映」
略して「郡映」。確か堂前、今の文化センターの北側あたりにあった。ほったて小屋のような小劇場だった。入口が資材置き場みたいな造りで、オンボロ屋敷に入っていくような印象だった。そこで小6の頃に、友達4~5人で「キングコング」を見に行った記憶がある。もちろんカラー映像になってからの作品だ。そしてその帰り道、中華料理屋の「なるき」でタンメンを食うのが定石だった。
3 「東映パレス」
こちらはあまり印象にないが、駅の目の前にあった。今は吉野屋がある北隣りくらいにあった。私は浪人時代に予備校をさぼって見に行ったのが、ミーハー極まりないが、当時流行った東宝の「たのきん映画」で、近藤真彦主演の「ハイティーンブギ」と「嵐を呼ぶ男」の二本立てを見た。当時、マッチに似ていた私は高校生に爆発的人気のあったその映画を見ておきたかった。平日の昼間だったので、客は3~4人しかいなかったと思う。
また、同じ映画館で、元カノと「波の数だけ抱きしめて」というホイチョイプロ制作の三部作(ほかの2作は「私をスキーに連れてって」「彼女が水着に着替えたら」)の青春ストーリーを見た記憶がある。
湘南を舞台に、大学生たちがひと夏、ミニFM曲を開局するという設定で、その中で叶わぬ恋を演出した。織田裕二、中山美穂、松下由樹らが出演した映画だった。
4 「スカラ座」
よく覚えていないが、大町のアーケードを西側に抜けた四つ角にあった映画館だったと思う。その東向いが中学の同級生の肉屋だった。斜め向いには成人映画の殿堂の「大勝館」があった。今は、「テアトル5」になっているため、同じ映画館だけに昔の面影が若干残っている。割烹居酒屋「くし膳」の姉妹店である「まめ膳」がの隣りにある。残念ながら、私はここでは映画を見た記憶がない。
5 「郡山ピカデリー」
郡山のさくら通り沿いの清水台。4号国道の西側に八幡坂があるが、安積国造神社まで登る手前にあった映画館。ちょっとわかりづらい場所にあり、階段で降りた地下にあった。映画館自体狭く、200席もなかったと思う。
私はここで中1の頃、初公開となった「STAR WARS」の初回作品(現在はエピソード4)を見た。しかし、大人気作品だったため、立ち見で見た。その優れた映像技術は既知のものではなく、CG技術や大音量に圧倒された覚えがある。
このように昭和30~40年代は映画が隆盛し、それらを見るために人々は大挙して駅前に繰り出し、映画鑑賞の後で百貨店に立ち寄り買い物をしていた。だから駅前が賑やかで、消費活動も活発だった。駅前には多くの書店があった。東北書店佐藤書店・叶屋書店・松文堂などだ。よく立ち読みして怒られたものだ。 古き佳き時代だったとつくづく思う。
ちなみに「松竹」は駅前大通り沿い、アーケード入口の角に鮨屋があるが、そこからはなの舞までの当たりの巨大ビルにあった。
「デパート(百貨店)」
郡山の老舗百貨店と言えば、私が幼少の頃は3店しかなかった。アニメCMが一世を風靡した「うすい百貨店」、仙台が本店の「丸光」、そして呉服屋のイメージが強かった「津野デパート」だ。
まず、「うすい」は中町の商店街通りを挟んで「第一うすい」と「第二うすい」に分かれていた。 「第二うすい」ではエレベーターが珍しい時代で、何度も乗って上下を繰り返した。制服を纏ったエレベーターガールもいた時代だ。私はここでは切手購入で訪れたものだ。そして親と買い物に訪れた際に、7階のレストランで「お子様ランチ」を食べるのが何よりの楽しみだった。また最上階が狭い空間だったが、ちょっとした遊具やゲーム機がおいてあって、そこで小銭を握り締めて遊んだ記憶がある。一度も見たことはなかったが、銀色の円形の構造物があった。もしかするとあれは天体望遠鏡を囲うドームだったと思う。
また「うすい」の特設会場は、時々奇妙な展示を開催した。一番気味悪かったのは「世
界の爬虫類展」だった。世界の珍しい蛇やトカゲ、ワニなどを展示する気色悪い内容の見世物だった。
一方、「第一うすい」の思い出は、何といっても昭和51年頃に屋上で開催された「スーパーカーフェア」だった。ガルウィングの「カウンタック」や「フェラーリ」など超絶スポーツカーが郡山にやって来たのだった。新聞やマスコミの過熱報道も手伝って、連日それを見たくて多くの買い物客が列を作った。「スーパーカー」フィーバーは凄まじく、ガチャガチャのカプセルの消しゴムになったこともあるくらい一大ブームが沸き起こった。「うすい」でも集客の目玉としてうすいの屋上に「スーパーカー」をクレーン車で吊り上げ、数台の超かっこいいマシンを並べて展示した。一説では搬入の際に、うっかり傷を入れてしまい、多額の賠償金を払ったという噂まで飛び交った。
「デパ地下」という言葉が後から流行したが、私はよく友達と食品売り場に行き、夕方の小腹が空いた時間に試食コーナーを回った記憶がある。また、おもちゃ売り場があって、そこで手当たり次第、置いてあるおもちゃを弄繰り回して遊んだことも覚えている。
なんだか泣けてくる・・・デパートの最上階にあった食堂の思い出
https://www.youtube.com/watch?v=BPZwzP3z6sI
【昭和の思い出】昔のデパートは夢が詰まってたのに何でこんなつまんなくなっ
ちゃったんだろ?【懐古】
https://www.youtube.com/watch?v=a847AACDB6o
続いて「丸光デパート」。駅前のアーケードの入口角に7階建てでデーンと聳え立っていた。今も建物自体は残り、朝日生命ビルとなっている。駅前大通りの地下通路から地下1階に直結して店に入ることができた。その地下通路では、ストリートミュージシャンがギター一本で歌っていたし、たまにはシートを広げ、自作ネックレスやアクセを売る若い行商もいた。
確か「丸光デパート」は、床が木のタイル張りだったと思う。いつ訪れてもワックスの独特な臭いがした。各階ともに商品の割りにスペースが広く、ガランとした印象があった。ここでの思い出は、地下1Fの食品売り場で、友人と訪れ、格安の学生ラーメンを食たことが何度もあったし、6階のおもちゃ売り場、そして屋上の遊園地&ゲームコーナーは行きつけだった。
屋上遊園地は私と同年代以上の方は特に懐かしいと思う。回転飛行機は徐々に高度
を増して廻旋速度も早くなるのだが、恐ろしいのは客が乗る飛行機型のキャビンがビルの外に出てしまうことだ。子どもながらに恐怖心を植え付けられた。初めて乗った時にはたぶん泣いて親を恨んだと思う。ほかにも回転するコーヒーカップもあったし端には幌屋根つきのゲームコーナーがあった。今思えば子ども騙しのピンボール型の長方形のゲームだが、それはかつて麓山にあった「児童文化会館」や「磐光パラダイス」に置いてあったゲームに似ていた。
「うすい」と「丸光」は特に古くからあったため、思い入れが強いデパートだった。
一方「津野デパート」は窓がない総銀張りの外観でいかつい印象があった。駅前大通りと国道4号線の北東側の角にあった。その後「第一イン」というホテルになった。
ここは呉服屋的な位置づけで、婦人服や着物を扱っていた。私は中高の学生服を設える際にお世話になった。当時は「トンボ学生服」と「富士ヨット学生服」が人気を二分していた。その取扱店というイメージしかない。
その真向かいには「丸藤」という婦人服専門のスーパーもあった。
その後、昭和52年頃に、百貨店競争が過熱する出来事があった。本店が東京にある全国チェーンの大型デパートがこぞって郡山に進出した。ご存知の通り、それは郡山駅が新幹線の停車駅となり、駅舎が建て替えられる頃の話で、駅前には「西友」、「丸井」が出店し、駅前の風景はガラリと変わってしまった。
また、大手スーパーの位置づけだった「ダイエー」が来た時には、地元のスーパーや「うすい百貨店」は警戒を強めた。しかもダイエーは売り場面積が大きく、駅前の大町の一等地に店を構え、しかも当時は斬新な本館と別館を渡り通路で結ぶ作りだった。郡山市民は買い物の選択肢が増え、駅前は活性化し人通りも多くなった。東北有数の商都と呼ばれるまでになった。
しかし、その後、地元の「うすい」と「ダイエー」の安売り合戦が過熱し、客の争奪戦が展開された。結果的に昭和の終わりにはダイエーが同系列のディスカウントストア「トポス」に身売り。それよりも前に西友ストアが百貨店色の濃い「西武デパート」に切り替わったが、集客が思うように伸びず採算が合わず、共倒れの様相が明確になり、結果、平成に入り、西武と丸井は撤退し、トポスも閉店に追い込まれた。
そして、市民に根強い人気があった「丸光」「津野」も閉店に追い込まれた。その後、校外の大駐車場を構える「ジャスコ」が日和田に完成。旧日東紡跡地に「THE MALL郡山」が出店し、客足が取られる形になった。イオン系列のスーパーセンターである「イオンタウン」が駅の東口に完成し、客の分散化が進んだ。
私はダイエーは気に入っていたが、売り場面積が各フロアともに狭く、敷居の高い「丸井」はあまり訪れた記憶がない。
「西武」はNゲージやレコードを買い求めに行った記憶がある。何より、駅前に面したガラス張りのエレベーターが当時は珍しく、またエレベーターガールが一番可愛かったことから、小学生時分には、わざわざエレベーターを乗りに行った記憶がある。
さて、いろいろと書き綴ったが、これほど駅前周辺にあった映画館とデパートは、思い入れが強い。それは小中高と郡山で学生生活を送った私にとって、駅前は刺激が多く、いろいろな誘惑があったからだ。見るものすべて新鮮で、活力があった。
最後に、本記事で掲載した箇所以外で、私がよく通い詰めた駅前の店を挙げて結びとしたい。
チロンヌップ アメリカ屋 BLUE HOUSE 靴のタカマツ 山の井
郡山中央スケートリンク トイスかんの 東北書店 ワタナベスポーツ
松英堂(楽器)角海老
サービス映像 「昭和45年の郡山」