本日は、昨日に引き続き、天国の芸人さんを取り上げる「今は亡きお笑い芸人」の続編をお送りしたい。「花王名人劇場」や「THE MANZAI」などかつて高視聴率をマークした漫やコント専門のお笑い番組が多かった。漫才ブームは一定の周期で訪れるようだが、主におめでたい正月番組には欠かせない貴重な存在となっている。しかし、芸を磨き、その漫才ブームに活躍し、一世を風靡した名人たちも、寄る年波には勝てず、多くの方が鬼籍に入られた。実に惜しい方たちを失ったものだ。では昨日と同様、彼らの足跡を振り返り、在りし日のお姿を偲び、自分自身の生涯と照らし合わせて懐かしんでみたい。
佐々木つとむ
昭和後期に活躍 したものまねタレント。本名:佐々木宏幸(ささき ひろゆき)。はたけんじ、団しん也、堺 すすむと共に"元祖ものまね四天王"と呼ばれていた。ものまねタレント神奈月の師匠。
渥美清、高倉健、森進一、田中角栄などの物真似で人気を博した。昭和50年代のものまね芸人ではトップクラスの存在で、ものまね芸では田中角栄、大平正芳、三木武夫、春日一幸の4人の声を使い分けた"ロッキード麻雀"のネタや、ネタ落ちで出す渥美清のマネ「それを言っちゃ~オシマイよ」のフレーズが有名だった。その実績から、1974年と1977年に放送演芸大賞部門賞を受賞した。
私生活では大変なギャンブル好きとしても知られていた。ギャラはその日の内に全てを賭け事に費やしてしまうこともしばしばで、多額の借金を抱えていたという。晩年の佐々木に師事していた神奈月も、借金取立人に神奈月自身の持ち合わせを取られてしまうなど、佐々木の借金にまつわる苦労について話している。彼の突然の死はそうした金銭トラブルによるものだった。
1987年9月4日夜、当時佐々木が同棲していた東京都板橋区高島平の39歳女性宅において、所属事務所の社長に刺殺体となって発見された。享年40。9月5日の高松公演を前に連絡が取れなくなって事務所のスタッフらが捜索しており、発見時には死後1週間が経過していた。殺害した女性もまた、犬を入院させた後消息を絶ち、2日後の9月6日に青森県むつ市大湊の陸奥湾で入水自殺しているのが発見された。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=Ecnw3pk4kes
内海好江
本名;奥田 好江、1936年2月23日 - 1997年10月6日。東京市 浅草区(現・台東区)出身の漫才師である。1945年にデビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年に内海桂子とコンビ結成。横浜放送映画専門学院で講師、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)では審査員を務めたのが縁で、同校出身で同番組にも出演したウッチャンナンチャンを自身が所属していたマセキ芸能社へ招いて芸能界入りのきっかけを作ったため、ウッチャンナンチャンは師匠と仰いでいる。また、1990年代は『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)へ準レギュラーとして出演し、「ちょっと聞いてよ!おもいッきり生電話」のコーナーで江戸っ子ならではの歯に衣着せぬコメントをしていたことでも知られる。その後も桂子とコンビで活動していたが、1997年10月6日、胃癌のため死去。享年61。江戸っ子の血を引いていたため、非情とも取られかねないほどの毒舌家で、バラエティ番組では共演者に対して容赦ない辛口コメントを度々飛ばした。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=Dv9I45VFbOs
たこ八郎
1940年11月23日 - 1985年7月24日 )は、日本のコメディアン・俳優で元プロボクサー。本名は斎藤 清作(さいとう せいさく)。 宮城県仙台市宮城野区新田出身。プロボクサーとして日本フライ級王座を獲得している。引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。元々、由利はたこを弟子にするつもりはなく、ボクサー時代に弟子入りを希望してきたたこに、断る口実として「ボクシングでチャンピオンになったら弟子にする」という条件を出し、その時には王者になるとは思ってもいなかったが、実際に日本王者になり、それならと弟子入りを認めたという。
芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。いつも酩酊状態(のような演技)で、「たっこでーす」という決まりの台詞と、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。金粉を全身に塗って走ったこともある。この様なTV画面などでみせる姿は、コメディアンとしての彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたといわれる。たこの面倒をよく見ていたあき竹城は、飲酒が多いことを心配し、「(お酒ばかり飲んでないで)ちゃんとご飯を食べなきゃダメだよ」などと、彼の世話を良く焼いていた。そのため、「たこの情婦」と言われたこともあったという。
人気絶頂期の1985年7月24日午前10時20分頃、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死亡(死の直前、その姿を週刊誌に写真を撮られていた。また、その頃にはパンチドランカー症状はかなり改善していたともいわれている)。この訃報は、当時レギュラー出演していた『笑っていいとも!』の放送中、タモリによって全国に伝えられた。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=p2sA5A64ehM
いかりや長介(ザ・ドリフターズ)
1931年11月1日 - 2004年3月20日)は、日本の コメディアン、俳優、ベーシスト、タレント。「ザ・ドリフターズ」(略称:ドリフ)の3代目 リーダー。本名:碇矢 長一(いかりや ちょういち)。愛称は「長さん」。「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。その後は俳優、タレントとして活躍。先に挙げた2番組での「お笑い」のイメージとは一線を画した、味わい深く「渋い」演技を見せた。1997年に放映されたドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)のベテラン刑事・和久平八郎役では、『全員集合』をリアルタイムで見たことがなかった若いファンからも支持を受ける。1999年、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。晩年は独特な語り口調を生かし、ナレーションを務めたことでも有名。
2003年5月末、「原発不明頚部リンパ節がん」により緊急入院。闘病生活の末、同年7月17日に一旦退院する。2004年3月15日、がんの転移が判明し東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院した。2004年3月20日、死去。72歳没。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=8XIMwOdsPOI
クレイジーキャッツ(犬塚弘を除く)
ハナ肇とクレージーキャッツは、ジャズ・バンド、お笑いタレント、歌手グループ。元々は「キューバン・キャッツ」の名で活動を開始したが、進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが面白く、"You, crazy."と言われたことから「クレージーキャッツ」に改名したとされている。渡辺プロダクション所属。数多くのバラエティ番組に出演し、コントを演じるようになってからコントグループと見られるようになってしまった。しかしながら、下記の通り各人は音楽の経験やテクニックという点で卓越した点を持っており、単なるコントグループ、コミックバンドとは全く違う、「音楽の質の高さ」を兼ね備えた異色のバンドともいえる。略称「クレージー」。音楽+コメディという芸能活動を広めた第一人者である。そして後にザ・ドリフターズに大きな影響を与えた。
メンバーは以下の通り
ハナ肇(故人)(1930年2月9日 - 1993年9月10日、ドラムス)
植木等(故人)1927年2月25日(実際は1926年12月25日) - 2007年3月27日、ボーカル、ギター)
谷啓(故人)(1932年2月22日 - 2010年9月11日、ボーカル、トロンボーン)
安田伸(故人)(1932年9月19日 - 1996年11月5日、四代目テナーサックス)
石橋エータロー(故人)(1927年9月30日 - 1994年6月22日、三代目ピアノ)
桜井センリ(故人)(1930年3月20日(実際は1926年3月20日) - 2012年11月10日、四代目ピアノ)
犬塚弘(1929年3月23日 -存命、ベース)
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=Pn029qV9U9I
夢路いとし喜味こいし
戦前から21世紀初頭にかけて 活動した、夢路いとしと喜味こいしの兄弟による日本の漫才コンビ。1937年に少年漫才 コンビとして活動を開始、2003年9月に兄の夢路いとしが死去するまで活動を続けた。1999年、大阪市指定無形文化財に指定。「上方漫才の宝」と呼ばれる。コンビ結成の1937年から、2003年9月25日に兄の夢路いとしが死去するまで活動を続けた。その間、数々の漫才における賞を総なめにしてきた。私は特徴あるだみ声が印象に残っている。また、昭和40年代の黄金番組、「がっちり買いまショウ」の司会者として番組を大いに盛り上げたシーンが想い出に残っている。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=VVSPN4NTw1A
横山やすし(やすきよ)
本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996 年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・ 大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。口癖は「アホンダラ」。
まぁ、この人はB型の典型で、自分勝手、自己中、我がままマイペースで、なりふり構わぬ「歩くトラブルメーカー」的な存在だった。しかし、なぜか友人や彼を慕う芸人は多かった。浪速の春団治のような性格で、独りよがり的な言動や行動が多かった。やすきよの漫才はその世界の頂点に君臨した。豪遊が過ぎる印象で、パイロット免許を取得し、仕事には自家用セスナ機を使うこともあった。また、武勇伝として、毎日散髪することが日課となっていた。
1987年12月に『スター爆笑Q&A』で酒気帯びのまま出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。これがとどめをさす形で番組を降板する。さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』の出演を直前にキャンセルしたために降板。1988年11月下旬、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。1989年4月17日、愛車を運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせた。大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしとの専属芸能家契約を解除することを決断。事実上の解雇通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才をやめる」と号泣しながら話した1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=cnJZgGO24-E
小野ヤスシ
1940年2月11日 - 2012年6月28日。タレント、 コメディアン、俳優、ミュージシャン。鳥取県境港市出身。自称『鳥取が生んだ天才“ スーパースター”』。本名は小野泰。「ザ・ドリフターズ」の初期のメンバーで、1960年「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」とグループ名が変わってから正式に参加。1964年、桜井輝夫の脱退後にリーダーの座を譲られた碇矢長一(後のいかりや長介)のワンマン体制に反抗し対立。同じくメンバーだったジャイアント吉田、飯塚文男、猪熊虎五郎と共に4人で脱退。この4人に祝勝を加え、コミックバンド「ドンキーカルテット」を結成し、演芸ブームの追い風の中、人気を獲得する。
1970年、ブームも下火となり解散。以降はタレントへ転身し、バラエティ番組では司会やリポーターなどで、映画やテレビドラマではコミカルなバイプレーヤーとして活躍した。
2010年1月に腎盂腫瘍で右腎臓を全摘出。2010年3月に開いた自らの芸能生活50周年記念パーティーの席上で、これががんによる手術であることを公表していた。それ以降は治療に専念しつつ、体調を見ながら芸能活動を継続していたが、2012年6月28日、腎盂がんのため都内の病院で死去。72歳没。
もしかすると彼がドリフターズに所属していたことを知らない人が大勢いるかもしれない。たぶん、ピン芸人かあるいは司会業などのタレントだと思っているに違いない。そして亡くなったこともご存じないかもしれない。我が福島県では、槙原寛巳と一緒に「さがみ典礼」という葬儀会社のCMに出演していたので、結構親しみがあった。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=Z4VEjHZfVu8
春日照代
「春日三球・照代」として活躍した夫婦漫才コンビ。 「地下鉄の電車 はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」のフレーズで有名な 地下鉄漫才で1970年代後半に一世を風靡し、立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしまた。
1965年に三球と照代で『春日三球・照代』を組み直し、夫婦漫才コンビで再出発した。 売れる前は三球がウクレレ(実際には三球は、ウクレレは弾けなく弾いていなかった事が多い)を、照代がギターを持ち、テーマソングの『線路は続くよどこまでも』を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には『地下鉄漫才』が大ブレークして全国区になった。地下鉄ネタに続き、新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持した。
1987年に妻の照代が急逝し、三球は再び人気絶頂で相方を失う憂き目に遭う。失意の三球を見兼ねた周囲が、子役出身の声優で漫才経験のある若手女性芸人・芳賀みちるを世話してコンビを組ませ、舞台に復帰させたものの、くすぶったまま約1年で解消。
春日照代(かすが てるよ、本名:近馬 せつ子<ちかま せつこ>1935年12月8日 - 1987年4月1日) 妻、ツッコミ担当。大阪府大阪市出身。テレビ番組『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)に出演中、くも膜下出血に襲われた。舞台袖で急変し、近くの大学病院に搬送されたが、手遅れで手術できず、意識の戻らぬまま帰らぬ人となった。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=WNnnGeoroUI
桜塚やっくん
1976年9月24日 - 2013年10月5日)は、男性お笑い タレント、声優、俳優、歌手。以前はジャニーズ事務所に所属しており、本名の斎藤 恭央 (さいとう やすお)で活動していた。神奈川県出身。血液型B型。
1999年には竹内幸輔とお笑いコンビ「あばれヌンチャク」結成。ツッコミ(ネタによってはボケ)の「(桜塚)やっくん」として、絵描き&ネタ作りを担当したが、2005年に、相方の竹内が声優に転向することを決意したことを機に、斎藤が竹内の希望を優先した結果、コンビを友好的に解散した。コンビ解消後、ピン芸人としてのネタを模索していたところ、「スケバン恐子」が作られた。現在はコンビ時代の愛称「桜塚やっくん」と改名している。スカート丈の長いセーラー服(2006年10月からスカーフが水色、竹刀、ロングのパーマかつらを装備した女装。関東スケバン連合の初代総長という設定で一人称は「アタイ」。ネタの内容は、初めに数名の観客を指名し、スケバン恐子のボケに対して指定された言葉を観客にツッコませるというもの。2006年4月からは有名な童話やテレビ番組などの紙芝居をするという内容になり、観客には作品に登場する人物などの役をやらせるようになった。巧妙なアドリブと、自らが描いた玄人はだしのイラストで、観客とやりとりし、場を盛り上げた。
2013年10月5日、山口県美祢市東厚保町の中国自動車道下り線、伊佐パーキングエリア付近で、自らがハンドルを握ってワンボックスカーを運転していた際に中央分離帯に衝突する単独事故を起こし、車外の路上に出たところを後続車にはねられた。その後病院に搬送されたが、同日18時16分、心臓破裂により死亡が確認された。37歳だった。
動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=ntrglkyikb8
他には、三遊亭圓楽も名人芸が冴える惜しまれて亡くなった方だろう。
続いては、今もご健在で、活躍中の優れた芸をお持ちの方々はこちら
「なんでかセレナーデ」の堺すすむ
松鶴家千とせ 「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」のギャグと、「いぇーい」で決めるピース。
さて、思いがけず、2回シリーズとなった今回の記事だが、いずれもその人にしかできない熟練の技を持ち、その技を見るために観客は寄席なり、公演会場に足を運んだに違いない。そういう名人芸は一朝一夕にできるものではなく、日々の絶えまぬ努力と厳しい鍛錬が陰ではあったに違いない。最高のエンターテナー達に敬意を払い、個々のご冥福を祈るとともに、彼らの技を後世に継承する若手芸人の誕生を心から願ってやまない。
記事作成:1月25日(土)~26日(日)