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Channel: 時遊人SUZUのひとり言
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今週の山岸舞彩キャスター(1/6~1/9)

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 毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 1月6日(月)

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 1月7日(火)

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 1月8日(水)

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 1月9日(木)

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 1月11日(土)に、山岸キャスターに関して、耳を疑うような衝撃的なニュースが飛び込んできた。それは、彼女が番組のキャスターに就任してまもなく丸1年を迎える「NEWS ZERO」を3月いっぱいで降板し、その後、キャスターに見切りをつけ、女優に転向するというものだった。私自身はNHKの「サンサタ」の頃からずっと彼女を応援してきたので、これは根も葉もない噂であって欲しいと願っている。真偽のほどは定かではなく、彼女自身の決断に委ねられているが、番組を降板するのはどうやら確からしい。ショックだ・・・。


道を切り開いた日本人アスリート

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 何事もパイオニア(最初にその道を切り開き、その道筋をつけた人)は賞賛に値する。長いあいだ閉ざされていた門戸をこじ開け、その後に続く人たちへの水先案内人になるのは並大抵のことではない。

 野茂英雄

 トルネード投法を引っさげ、メジャーへ殴り込みをかけた野茂。相手打者に背中を向ける独特の投法と鋭く落ちるフォークを武器に三振の山を築き、奪三振王にも輝いた。その卓越したマウンドさばきに魅了されたファンは野茂マニアと呼ばれた。ノーヒットノーラン2度の快挙を達成し、日米通算200勝も達成した。彼に続いた日本人プレーヤーは2013年現在で54名もいる。佐々木主浩長谷川滋利、イチロー、伊良部秀輝、石井一久、松井秀喜などが後に続いた。誰もが尊敬するところだ。血液型はB。

http://www.youtube.com/watch?v=ypq3pfJQgHY 1996年ノーヒッター

http://www.youtube.com/watch?v=ZYrdViXQwdE 2001年ノーヒッター

 中田英寿

 日本人初のセリエA移籍で大活躍。日本人のサッカー選手が世界でも通用することをアピールしたのは彼の功績が大だ。セリエAのペルージャに移籍し、いきなりデビュー戦で2ゴールの快挙を成し遂げ脚光を浴びた。その後、その活躍が高く評価され、ビッグクラブを渡り歩いた。彼以降、海外クラブへ移籍したJリーガーは数多い。名波浩、稲本潤一、高原直泰、小野伸二、中村俊輔、岡崎慎司、香川真司、川島永嗣、内田篤人、長谷部誠、長友佑都など数えたらキリがない。血液型はO

 ペルージャでのデビュー戦でいきなり2ゴール!

 2戦目で魅せたオーバーヘッドキック

 岡本綾子

 記事作成:12月21日(土)~

とにかく貴重な映像集 Part6

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 このシリーズ記事も第6弾を迎えた。YouTubeなどの動画映像は若かりし頃に見た懐かしのTV映像や青春時代を思い出させてくれる動画が数多くあり、まさに宝箱のような存在だ。そんな貴重な映像を取り上げたいが、1980年代のバブル期が私の大学生時代にあたるため、私と同年代の方であれば、おそらくは同じ時期を過ごし、経験がある分、楽しんでいただけると思います。では早速どうぞ!

 立花理佐「キミはどんとくらい」

 立花理佐は私が大学時代に人気絶頂を迎えた。両頬にできるエクボと太い眉毛がトレードマークだった。でも彼女が貴重なわけではなく、その後ろで踊っているお面をかぶったダンサー2人。そう、もうご存知だと思うが、ホンジャマカのふたりだ。白い大柄の方が誰あろう石塚英彦だ。「ま・い・う~」を常套句とし、現在の食いしん坊ぶりを発揮しているあの石ちゃんからは想像がつかないほど今より痩せた体型。そして黒い格好が「昼おび」のメインキャスターを担っている恵俊彰だ。売れない頃は、バックダンサーや「東京フレンドパーク」で着ぐるみを着てハイパーホッケーをしていたのだった。

http://www.youtube.com/watch?v=kYZdmwtRoU4

http://www.youtube.com/watch?v=1e8mAKt7dCw

 欽どこ「昭和の女優名場面」

 テレ朝系の水曜21時から放送していたお茶の間バラエティ。驚異の視聴率男の萩本欽一がアドリブで場を盛り上げた。番組から見栄晴やわらべなどが生まれた。私はゲストが食べるオカズの順番を当てるコーナーと、斉藤清六の「村の時間」が好きだった。

  櫻井翔、慶應大学卒業時の記者会見映像

 22歳で慶應義塾を卒業した時の映像。芸能界との二足のわらじながら、ストレートでの卒業は立派。私も経験した講堂のお馴染みの校旗の旗の前。大勢の記者の質問にも臆することなく堂々たる受け答え。私の母校でもあるので、他人ごととは思えない。あ~「若き血」を大声で歌いたい・・・。

 コメットさん

 何度も削除の憂き目に遭っている映像がこれ。大場久美子が主演して大人気を博した魔法使い少女の実写版。これはそのオープニング映像。1978年(昭和53年の映像)。この頃は、ククレカレーやカメラのCMなど引っ張りだこだった。同時期に活躍したのは、石野真子、ピンクレディー、榊原郁恵らがいる。

http://www.youtube.com/watch?v=q19TEAmzgIg

 がんばれレッドビッキーズ

 1970年代に人気があった林寛子。アイドル歌手としてブロマイドの売上げは凄まじかった。小顔で愛くるしい笑顔。少しロリっぽい印象だったが、彼女が主演した少年野球チームの監督役ははまり役となった。このOP映像も、著作権の問題で何度も削除されているようだ。

  吉永小百合さんのCM

 昭和の頃、サユリスト達を熱狂させた彼女。日本を代表する美人女優の彼女が30代の頃に出演したCMがこれ。今見ても美しすぎる。容姿端麗とは彼女ためにある言葉だ。

 記事作成:12月6日(金)

奇跡の生還劇

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 この手の話題はタブーだと思い、長い間回避してきた。運良く助かった方はいいだろうが、志半ばで命を落とした方や、その遺族の感情を逆なでするような気がしたからだ。まして、東日本大震災とオーバーラップして、辛い記憶が甦るのではいかと危惧していたからだ。
 しかしながら、私自身も被災者であるため、辛い思いを共有してきた身だし、未だ原発の汚染水問題が解決できていない状況にあり、今でも近所のモニタリングポストの放射線の値は0.3前後で、通常の100倍以上の値を示しているのが現状だ。これが蓄積され、生涯の被曝量を考えると末恐ろしい。従って、今日は、最悪の事故に見舞われて、命の危機に晒されながらも、奇跡的に生還した事故を取り上げ、未だに行方不明で生還を信じている家族への希望を与えるという趣旨でお送りしたい。

 1 チリで起きた岩盤落石事故

 2010年8月5日にチリ共和国北部、コピアポ郊外のサンホセ鉱山で 起こった事故である。 概要. 金と銅を地下624mの位置で採掘してしていた33名の作業 員は 400m付近で発生した落盤事故のために地表に戻ることができなくなってしまった。事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出された。サン・ホセ鉱山 (el yacimiento San Joséまたはla mina San José) は、コピアポの45km北に位置する。鉱山を所有したのはミネラサンエステバン社であったが、のちに倒産した。作業員達が閉じ込められたのは地下634mの坑道内で、これは坑道の入り口から5kmの位置である。この事故後、作業員は秩序を守り、独自のルールを立てて励ましながら救出を待ち、決して望みを捨てなかった。緊急に製作された脱出用のカプセルも名案だったし、彼らの生命力には敬服した。

 2 ハドソン川に着水した機長の英断

 2009年1月15日午後3時30分ごろ、ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した航空事故である。エンジン停止の緊急事態に追い込まれたにもかかわらず、機長の冷静な判断によって墜落を免れ、真冬のマンハッタンのハドソン川に緊急着陸を決行した。乗員・乗客全員が助かったことから、ニューヨーク州知事のデビッド・パターソンはこの一件を「ハドソン川の奇跡」(Miracle on the Hudson)と呼んで褒め称えた。

 3 アポロ13号

 1970年4月11日、アポロ13号は現地時間13時13分に打ち上げられた。月に到着する直前の4月13日、酸素タンク撹拌スイッチ起動により爆発が発生。酸素タンクから急激に酸素が漏れだした。酸素は乗員の生命維持だけでなく電力の生成にも使用するため、重大事態となる。当初、事態をつかみ切れていなかった乗員や管制官たちは、途中まで月面着陸を諦めていなかったが、やがて地球帰還さえできないかもしれないという重大事態であることを把握した。二酸化炭素濃度の上昇、電力の不足。地上の管制センターでは、管制官達だけでなく、メーカーの人間も含め、関係者全員が招集され、対策が練られた。搭乗しなかったケンは、電力をいかに節約するかをシミュレータを使って検討、地上からラヴェルら乗員をバックアップした。残存電力を保つため、船内は最低限の電力しか使わず、ウインナーが凍るほど寒くなるが、乗員同士支え合う。
 しかし、13号がコースを外れていることが判明。原因は、酸素の噴射により軌道のズレが生じたというものであった。誘導コンピュータは電力を使用してしまうため起動できない。このため、手動噴射による姿勢制御を決断。窓の外は船外を漂うゴミと、船内の室温低下とで曇っていてよく見えないが、地球が見えた。これを唯一の目標として、手動による噴射を行い、見事に成功。
 ところが、またもやコースについての問題が露見した。月面に着陸しなかったことで、土産として積み込む予定だった月の石100kg分の重量が不足していたためである。不要物を手動で移動させ重心を調整した。管制センターの計算では、大気圏進入角度がわずかに浅かったが、これは乗員に伏せられた。
 やがて大気圏再突入となるが、再突入時には通常、通信が約3分間途絶してしまう。ケンは何度もアポロ13号を呼び出すが、3分間経っても返答はない。しかし約4分後、交信が入る。限られた資源と時間を使って奮闘した乗務員と管制センターの連携により、彼らは無事に地球に戻ることができ、管制室は歓喜に沸いてハッピーエンドとなる。

 4 東日本大震災の津波からの奇跡の生還劇

 

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災。迫り来る津波との一刻を争う逃走劇。車ごと流された主婦が何故助かったのか。その九死に一生を得たドキュメント映像とその回顧録。

 5 奇跡の生還劇の映像集

 かつて日本テレビ系列で日曜夜8時から放送していた「特命リサーチ200X」のリサーチ報告。死に至るのメカニズムや奇跡の生還を遂げた例を取り上げたケーススタディ。

 記事作成:10月19日(土)~12月2日(月)

想い出の曲⑤

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 このシリーズ記事も第5弾を迎えた。今回は、私に影響を与えたフォークソングを3曲選りすぐってお送りしたい。

 「22才の別れ」 by 風

 この曲を耳にすると、懐かしく学生時代を思い出すのは55歳から60歳前後の方だろう。学生運動が下火となり、フォークブームや長髪にパンタロンというファッションが流行した。カレッジフォークを経験した方には、実際に歌詞と同じような場面を実体験していると思われるので涙モノの動画だと思う。ぜひ学生時代を懐かしむようにご覧下さい。

 私はその後の世代なので、ドラマ「昨日、悲別で」のドラマの主題歌としての認識が強い。いずれにしても名曲中の名曲だと思う。

 「なごり雪」 by イルカ

 こちらも「22才の別れ」と同じコンセプトが漂う。それもそのはず、どちらも「伊勢正三」が手がけた楽曲である。こちらも、時期が来れば好きだった人と別れなければならない切なさや悲哀をその瞼を閉じればその場面の情景が浮かんでくるようだ。春を前にして故郷に帰る彼女。それをプラットホームで見送る彼。学生時代という限られた時間を東京で一緒に過ごし、仲間意識や友情、恋愛事情など複雑に絡んだ人間模様をすべてたち切るように辛い別れが訪れる。そんな世代の情緒を如実に表現した作品だ。

 「夢の中へ」 by 井上陽水 

 斉藤由貴もカヴァーしたが、私の中では彼の楽曲がいの一番に思い出される。中1の頃、他の小学校から入ってきた友人が音楽の時間に自己紹介でこの歌を歌い、小学生だった子がなんてこまっ洒落ているのかとカルチャーショックを受けた。

 この時代のフォークソングは、その歌詞の裏側にある特殊事情を問題意識としてメッセージを送ったり、その歌の情景が美しく思い浮かんでくるところがその世界観である。この頃は数多くのフォークシンガーやグループが登場した。他にはガロ(学生街の喫茶店)、赤い鳥、ハイファイセット、青い三角定規、古井戸、NSP、ふきのとう、荒井由実、吉田拓郎、小室等、かまやつひろし、みなみらんぼう、泉谷しげるなど数多くのシンガーがいた。

 記事作成:12月7日(土)

 

 

同性に好かれる女性有名人

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 男から見るとさほど魅力を感じなくても、どういうわけか同性から好かれる芸能人なり、スポーツアスリートは結構いる。不思議とカリスマ的な人気で、圧倒的支持を取り付ける女性が世の中にはいるようだ。それには何かからくりとか特別な理由とかが存在するのではないかと思い、検証してみたいと考え、このテーマを設定した。まずは、毎年発表される「同性から好かれる芸能人」を参考にすると、大方は次に挙げる方々だろう。

 1.安室奈美恵

 1990年代後半から2000年代に歌はもちろん、若者のファッションリーダーとして君臨した。「アムラー」という流行語を生み出し、彼女のファッションを真似するギャル系女子が街にわんさかいたものだ。TRFのバックダンサーと結婚し、子供をもうけたが、その後離婚。私生活では不幸もあったが、それでも彼女の生き方に共鳴した女性を中心に圧倒的な支持者がいるのは不思議だ。血液型はO型。

 2.安藤美姫

 ご存知、今年現役引退を表明したフィギュアスケーター。今年、極秘裏に出産していたという衝撃的なニュースが飛び込んだ。出産か中絶かの狭間で悩み、揺れ動いたが、「未婚の母」になることを決意し、子供を「天からの授かりもの」と考え、出産に踏み切った。しかも父親の名を明かさず、シングルマザーとして育児とアスリートの二束の草鞋を貫いた姿勢が、世の女性の共感を呼んだ。懸命に頑張る母親の姿を自分と重ね、応援している傾向がある。一般的な概念では、「生むのは勝手だが、息子が大きくなった時に、どう説明するのか」とか、「息子が可哀相」という世間の常識がある中で、生命を第一に考えた決断を尊重し、賞賛する声も多かった。血液型はO型。

 3.益若つばさ

 ご存知読者モデルとして、その世界では第一人者としての地位を確立した。カラーリングや奇抜な髪型、つけまつげなどの可愛らしい化粧やスタイリッシュなファッションで一時代を築いた。男から見て引いてしまうような雰囲気も女性にはウケがいいようで、カリスマ的な存在となった。やはり私生活では離婚というマイナスイメージがあったにもかかわらず、その人気は不動だ。血液型はB型。

 4.富永 愛

 彼女もまたカリスマ的なファッションモデル。男から見ると怖いくらいストイックで、思わず敬遠したくなる印象。彼女を操縦できる男性は少なそう。よっぽど優しくて彼女の我がままを包容力で包んで許してしまうか、芯が強く、力ずくてグイグイ引っ張っていく強い男か両極端だろう。普通に接し方では尻に敷かれて鬼嫁的な感じになってしまいそう。血液型はO型。

 5.浅田真央

 B型は、固定概念を極端に嫌う。自分の個性やオリジナリティーを追求したがる。だから、集団に埋もれず、若くしてその才能を発揮する。骨太でやせ形体型の人が多い。アスリートで一番重要なプレッシャーを感じないどころか、楽しみに変えてしまう楽天的傾向がある。イチロー、福原愛、谷亮子、宮里藍、杉山愛、伊達公子がそうだったように、国際舞台でその実力をいかんなく発揮する。真央ちゃんが競技会に出ると、会場には大勢の女性ファンが詰めかけ、その応援は半端ではなかった。まさに神がかった印象を受ける。

 6.天海祐希

 宝塚では、男役のトップスターとして活躍した。もちろん同性である女性の熱狂的な声援や支援を取り付けた一人だ。それは男性以上にカッコいい雰囲気も醸し、仕草や決めポーズもバッチリだが、女性の気持ちを察するさりげない優しさや配慮もできることから、理想的な男性像を演じることができる。男性にはこうあってほしいというイメージを作り上げ、夢を現実にしてくれるところにしびれるのだろう。彼女の場合、理想的な女性上司として名が挙がることが多いことでもわかるだろう。血液型はO型。宝塚の男性トップスターはB型やO型が圧倒的に多く、娘役はA型が多い。

 7.松雪泰子

 高校在学中の1989年、雑誌『MEN'S NON-NO』のオーディションに応募し、「第1回メンズノンノ・ガールフレンド」に選出された。高校卒業と同時に上京し、本格的に芸能活動を始め、1991年にテレビドラマ『熱血!新入社員宣言』で女優としてデビュー。1993年の主演テレビドラマ『白鳥麗子でございます!』での強烈なキャラクターがハマリ役となり、以後女優としての地位を確立した。私は、「フラガール」の先生役のイメージが強い。
 私生活では、1998年3月、音楽バンド「ザ・スリル」のギタリストGAKU(門脇学)と結婚(入籍)。2001年春には長男を出産したが、2004年12月、「仕事が忙しくすれ違いが多い」ことを理由に離婚した。結婚以前には、保阪尚希と公然の仲で、交際時に共演したKOSEのCMが話題を呼んだ。2人で逃げるシーンが視聴者にインパクトを与えた。他に河村隆一や、ドラマーの沼澤尚との交際を報道されたことがある。
 さまざまな噂やスキャンダルが多かったが、毎年「同性に好かれる芸能人」のランキングで上位ランクされていた。血液型はO型。

 8.菅野美穂

 2013年に俳優の堺雅人と電撃結婚し、その後の「半沢直樹」で大ブレイクしたために、もっぱら「あげまん」との評判を得る。彼女自身も「奇跡のりんご」などヒットしたため、飛ぶ鳥を落とす勢いの芸能人夫婦となった。彼女は多くの芸人に物まねされるなど同性に愛される存在。毎年、ランキング上位に顔を出している。血液型はAB型。

 9.米倉涼子

  彼女もまた、天海祐希とともに、理想の女性上司像の上位にランキングされる存在。ドラマの印象が強いかもしれないが、仕事のできるキャリアウーマンとして、カッコいいイメージが定着している。テキパキ器用に動き、仕事をバリバリこなし、男性も顎で使え、頭がキレル感じがする。女性からは羨望のまなざしで、憧れる存在に映るはずだ。血液型はB型。また、B型は線が細く、スタイリッシュ。何を着てもサマになる。外見もカッコいい印象を与えるからなおさらウケがいい。

10.柴崎コウ

 彼女のはまり役は「ガリレオ」の内海薫。男勝りで気の強い役が多い。仕事にのめり込んでいる女性には、自らの手本となるような生き方を実践し、挫けず自分スタイルで生き抜く姿が頼もしく映っているに違いない。本業の女優だけでなく、歌手も器用にこなしマルチな才能をいかんなく発揮しているところが、最大の魅力なのだろう。血液型はB型。

 その他には、長谷川京子(B型)、綾瀬はるか(B型)、福原愛(B型)、深津絵里(O型)、
ベッキー(AB型)、真矢みき(O型)、篠原涼子(B型)、江角マキコ(AB型)、宝塚トップスターなどが同性に好かれる芸能人の上位だが、何か気づかないだろうか。日本人の約4割はA型なのだが、同性に好かれる有名人ランキングに、A型が極端に少ない(ひとりもランクインしていない)という点。これはどういう理由なのだろうか。これまで当ブログで血液型別性格診断を掲載してきたが、まさにこれを材料にして日本人の性質や概念を垣間見ることができると思う。 
 A型というのは、基本的に真面目さ、節度、謙虚さを重んじ、あまりでしゃばったりする行動を嫌う。したがって、芸能界やスポーツなどで敵と競ったり、表に出る行為が苦手である。或る意味、可もなく不可もなくの人畜無害の存在で、だからこの分野では、集団の中に埋もれてしまい、あまり目立たない。悪く言えば個性が無い。プライドが高く、本心をなかなか明かさない気難しい面があり、だから自分の弱みを見せたがらないし、可哀相と思われたり、同情を引かれたくないと思う傾向が強い。だから、たとえ辛くても弱音を吐くなどの本心を吐露しないため、同情も得られないし、共感も得られにくいのだ。感情表現をストレートに出すO型や、興味があることにプレッシャー無く前向きに取り組むB型がどうしても目立ってしまうということだ。A型で同性に魅かれるとしたら、浜崎あゆみやかつての中森明菜、藤原紀香くらいのものだった。

 上記の例を参考に、ここで同性から好かれる女性の要件を探ってみたい。

 1 情報や流行に敏感で、話し上手。引出しをいっぱい持っている。

 2 裏表がなく、細かい気配りや自然な振る舞いができる。

 3 ファッショナブルでおしゃれだが、無理せず身の丈にあったベストな服装をする。

 4 才色兼備でも、嫌味が無く謙虚な対応ができる。

 5 人の陰口や噂話を言わず、多くを語らず自己主張を慎み、節度のある行動がとれ
  る。

 6 ほどよくリーダーシップがとれ、グループでも中心的存在で、事務能力が高くてそつな
  く仕事をこなす。

 7 軽率な言動や行動をせず、生活スタイルが確立されている。

 8 自分らしさをわきまえており、落ち着いた物腰で対処できる大人の女性。

 それでは、逆説ではないが、同性に嫌われる女性の有名人についても触れておきたい。どういう女性の行動や言動が同性である女性にもっとも嫌われるのか。性格的に挙げると以下のようになるようだ。

 1 自分が美人であることを鼻にかけている嫌味な女性や自分のことを自慢ばかりする女性。(これは男性でも嫌われるタイプだが)

 2 不自然に自分を取り繕ったり、ぶりっ子の女性。

 3 男性の前ではコロリと性格を変えたり、男に媚を売ったり、迎合するタイプの女性。 

 4 男遊びが過ぎる女性(誰とでも寝る女)。

 5 自分が好きな男性芸能人と噂がある女性芸能人。

 6 生活が派手な女性。女性が見てケバケバしい服装や化粧。

 7 自分の体を売りにしている女性(豊胸、美脚など)

 8 金持ちと結婚し、大金を手に入れた玉の輿女性。

 9 可愛いだけでおバカ。

10 男性を見下し、バカにした応対しかしない女性。(年配の独身女性に多い)

 これらが女性に嫌われる例だそうだ。あまり名前を挙げるのは気が引けるが、これは、ネットで公表されているランキングなので、一応書かせてもらうと

 剛力彩芽、田中みな実、紗栄子、矢口真理、喜多嶋舞、南明菜、菜々緒、戸田恵梨香、ほしのあき、熊田耀子、佐々木希、グラビアアイドル)らである。

 中にはその美貌に対して妬んで嫌うケースもあるようだ。

 さて、いかがでしたか。共通しているのは、スキャンダルがあったり、災難が降りかかったりして世間の逆風に晒されても、それを乗り越えた方々、つまりは苦労人や人生模様を感じる方々に共感し、同情し、応援したくなる傾向があるように思える。かつて栄華を誇りながらも、身内が次々亡くなり、天涯孤独の身となった美空ひばりや自殺まで考えた島倉千代子をカリスマとして仰ぎ、心酔していった女性ファンが多かったことでも証明できよう。加えて、元来女性と言うのは、人を出し抜いたり、枠からはみ出すことを避け、同じ意見や考えを、自分と比べて共感的にとらえたり、共鳴することで喜びを感じたり、自らの存在価値を見出す傾向がある。ゆえに、飾らずに自然のまま率直かつ素直に生きている人への好感度が高くなる。それに女性と言うのは、元来美しい物や可愛い人、綺麗な人に憧れる。役柄とはいえ、自分にない物をたくさんもっていそうな人に憧れる傾向が強い。以前、「B型男性に惚れやすいA型女性」という記事を書いたが、同性に対しても同じことが言える。日本人の約4割近くはA型。そのA型の趣向がB型にベクトルを向いている以上、実はB型は神がかり的な存在となりえる。度が過ぎた行動は敬遠されるが、それが芸能界と言う偶像の世界観の中では、重宝されるのは当然の成り行きだろう。個人的には、「男は度胸、女は愛嬌」という言葉があるが、女性の笑顔に勝る武器はないと思っている。どんな美人でも、ブスッとしている女性は、性格的に問題を抱えている印象を持つし、他人に不快な印象を与えてしまう。明るさと笑顔が人を呼ぶ最大の武器だと知ってほしいと思う。

 今回の記事をどう思うかは個人の自由だが、少しでもこの内容に共感し、実践してみようという気になった女性がいてくれたら嬉しく思う。

 記事作成:12月28日(土)

日本人の誇り

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 私はこの広い世界において、人間として生を受け、そして何の因果か日本人として生まれ育った。国際的にも先進国という地位を得、最先端技術を駆使し、豊かな生活を送っている民族の一員として毎日を生きている。しかしながら、近年、犯罪が横行し、日本人らしさや真面目で勤勉な日本人というイメージを逸脱したような凄惨な事件や事故が相次いで起きている。本来の日本精神とは、困っている人がいれば手を差し伸べ、助け合いや支え合いの中で戦後間もない混乱期を乗り切ってきた。火山や地震が多発する自然環境にあって、不遇な戦争にも巻き込まれた。しかしいつの時代も「日本人の誇り」を胸に抱いて、戦に散り、あるいはそれに恥じない生き方を選んできた筈だ。
 震災から3年近い月日が流れ、今こそ日本人の誇りの意味を再び考え、それを取り戻す契機に来ている。古の日本人の生き方やあり方をもう一度学び、あるべき姿の日本人を習得し、継承すべきであろうと考える。ではその参考になる映像をご覧いただきたい。

 「他国が日本を愛する理由」

 親日国 前代未聞の『感謝デモ』

 東日本大地震 海外の評価&反応 NYでのインタビュー

 評価の高い日本人観光客

 

 八田興一 台湾の教科書に載っている日本人の物語

http://www.youtube.com/watch?v=vejSlK9ZTsw

 桜よ ~大好きな日本へ~インドネシアからの友情

 大震災に直面しても秩序が保たれる日本

 最近、安倍晋三首相は日本人を欧米化するような愚策とも思えるような傾向が強い。それは英語を小学校低学年から履修させ、英語力を植え付けて、国際社会と通訳なしにコミュニケーションを図れる人材を輩出させようとする狙いだ。もちろん国際問題に即応できる人材を育成することには何ら反論はない。しかし、あまりにも低年齢から日本語と異なる言語やら文化に触れさせると、日本語や日本文化、あるいは日本精神まで損なわれ、欧米型の思想や思考力ばかりが磨かれ、肝心の「日本人らしさ」や日本人としての存在感やあり方、生き方までもが失われてしまう危惧を抱かざるを得ない。国際的なコミュニケーション力を身につける前に、日本人としての誇りや文化を守り抜く姿勢を育てて欲しい。おそらくは日本人は皆、欧米人になってしまう可能性を孕んでいる。

 記事作成:12月15日(日)

今週の山岸舞彩キャスター(1/13~1/16)

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 毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 1月13日(月)

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 1月14日(火)

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 1月15日(水)

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 1月16日(木)

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福島県の恐ろしいスポット

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 これまで当ブログで、「郡山のミステリースポット」や「福島県のミステリー事件」などホラー的な記事を書いたことはあったが、この記事は本来タブーで、触れてはいけないと思っていた。我が福島県の最大の恐ろしいスポットと言えば、今や「東京電力福島第一原子力発電所」以外の何物でもないが、それを除いた、霊的な意味や戦慄や恐怖を感じる「世にも恐ろしい場所」ということで紹介したい。いかにも祟られそうで、シリーズ化は避けたいテーマとなるので、できれば今回限りとさせていただきたい。

 さて、そもそもこの執筆を思い立ったのは、12月14日(土)に、TSUTAYA桑野店の中古本コーナーを漁っていた時、「世にも恐ろしい歴史ミステリー」という本を見つけた。それに載っていた、福島県で唯一恐怖の場所として紹介されていた場所が本日取り上げたいスポットだ。その本を読み、私は愕然とし、更には寒気がするほどの戦慄が走り、恐怖に戦くこととなった。
 しかしながら、冷静に考えれば、会津戊辰戦争の折、多大な犠牲を払った会津若松城下や二本松少年隊の悲劇、今年私が訪れた霊場「岩角山」など、挙げればキリがないが、ここは戦国時代の出来事なのに、未だに成仏できない地縛霊や霊魂が多数浮遊しているスポットとして書かれていた。では心して読んでいただきたい。

 「小手森城(おてのもりじょう」 二本松市針道(旧東和町)

Otenomori 福島県二本松市針道にあった戦国時代の城館。現在は廃城になっており、本丸跡に愛宕神社が祀られており、城跡各所に石垣や曲輪の遺構が残存しているだけ。
 概要は、小手森城のある中通り北部の阿武隈川東部一体は塩松とよばれ、16世紀後半は小浜城主・大内氏の支配地域であった。この時期の小手森城は小浜城の支城であり、菊池氏が城を守っていた。
 この城を恐怖のミステリーとして伝えられているのは伊達政宗の「八百人斬り」の史実によるためだ。小手森城といえば、1585年(天正13年)8月27日の伊達政宗による全城兵の殺戮が有名で、その年、出羽国米沢城主・伊達政宗は小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。
 8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父の山形城主・最上義光へ送った書状には、城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など500人を討ち取ったほか、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢1,000人に及んだと記載している。ただ、数については正確な数字ははっきりとわかっておらず、翌28日付で家臣の後藤信康に送った書状によれば200人、9月2日付で資福寺・虎哉宗乙宛の書状では800人と記載されている。しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。
 1987年(昭和62年)に放映されたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では、第11話の「八百人斬り」で、このときの撫で斬りの様子が描かれている。(ログインが必要です。)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16314423

 実際に訪れた方の動画映像はこちら

 何の罪もない子供や婦女を弔う意味で、石塔などが建てられている。昼間でも鬱蒼と雑木林が生い茂り、夕刻や夜間は、とても一人では容易に近づけない場所である。まして肝試しなどはしてはいけない。

 その後、小浜城も落城し、塩松は政宗の所領となったが、天正16年(1588年)、政宗の命で塩松を守っていた石川弾正が相馬義胤の誘いに応じて政宗に反旗を翻した。閏5月16日に政宗は弾正の籠もる小手森城を攻撃し、約500人を討ち取り、落城させた。これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。

 余湖さんの図入りの詳しいブログはこちら

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/nihonmatutowa.htm

 <関連ブログ> 地図、写真など

http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/enomoto/11-0930-3/

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/site/kankou/490.html

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/nihonmatu/otenomori.html

http://ameblo.jp/cmeg/entry-11458496313.html

http://www.geocities.jp/zanyphenix/shiro1505.html

http://shigezane.fc2web.com/majime/kassenn/kotemori.html

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/jenoside6.html

 この殺戮から420年以上もの月日が経過したワケだが、私自身は若き伊達政宗の手柄を焦るあまりの暴走と暴挙がこうした悲劇を招いた要因であると考えている。老若男女を問わず、手段を選ばずに無差別に「皆殺し」とはあまりにも残虐で無慈悲すぎる。戦国の世は人を狂気に変え、見境ない境地に立たせ、モノの良し悪しの判断すら狂わせてしまう。歴史の一場面の中に埋もれてしまっているかもしれないが、こうした悲劇が当地で繰り広げられたという事実を伝えていかなければならない気がする。

 歴史に触れる旅(伊達政宗の足跡を追って)はコチラ(9/23付記事)

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e2bd.html

 記事作成:12月14日(土)

 

 

とにかく貴重な映像集 Part7

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 このシリーズも第7弾を迎えた。今回も懐かしくも貴重な映像を選りすぐってお送りする予定です。今回はかつてTBSの看板番組だった「ザ・ベストテン」に関係したVTRが多い。では早速ご覧ください。

 山口百恵「ひと夏の経験」

 「ザ・ベストテン」の貴重映像は、アップ直前に削除されたため、差し替えてお送りします。

 今から30年以上も前になるが、1970年代を代表する女性歌手として真っ先に名前が挙がるのは山口百恵を置いて他にない。「としごろ」でデビュー以降、「横須賀ストーリー」、「イミテーションゴールド」、「プレイバックPart2」、「絶体絶命」、「秋桜」、「いい日旅立ち」などヒット曲を連発。同性にも男性にも好かれるスーパースターとなり、ドラマや映画で共演し、ゴールデンカップルとして注目された俳優の三浦友和と結婚し、スパッと芸能界を引退した。その後、家庭に入り、良き妻、良き母親として夫を支え、一度たりとも芸能界に復帰していない。

 三浦友和との交際発表後のベストテン出演場面はコチラ

  アツアツ映像はコチラ

 当時、超二枚目俳優とトップアイドルスタートのラブロマンスは大きな話題になった。美男美女の誰もが羨むビッグカップルだった。変に隠し立てしなかったため、爽やかカップルとして、ファンやマスコミは微笑ましくかつ温かく見守っていた気がする。

 松山千春、伝説のベストテン初登場映像

 私が中1だった昭和53年に、CMソングとして注目を浴び、TBSの「ザ・ベストテン」にランキングして、初出演した時の模様。この映像は今でも語り継がれる伝説となっているもので、長年お蔵入りした超お宝映像である。翌日学校の話題は彼の登場場面を「録音」したかどうかだった。当時はまだビデオデッキが普及していなかった(持っていたのは富裕層で、しかもVHS前のドカベンカセットだった)ので、この映像は極めて貴重だった。

 また、千春と同じような対応をしたのは、「守ってあげたい」がランクインした時の松任谷由実だった。わざわざ前の週に電話をくれ、出演予告をしての翌週出演と言うことで、事前告知が効いて視聴率は半端なく高かった。

 岡田有希子さんの懐かしいCM集

http://www.youtube.com/watch?v=BoLsJPahKV8

 昭和を代表するアイドルの一人として活躍した彼女。しかし、自ら天国へと旅立ってしまった。あれから早、28年が経過した。今でも私は、明るく、あどけない笑顔を振りまいている彼女の姿しか頭に残っていない。けっして彼女のことは忘れない。彼女を「過去の歌手」にしてほしくないし、時々思い出してほしいので、ここに掲載するものである。

 さて、今回は主に3人の方々にスポットを当ててみた。貴重なお宝映像はまだまだあるので、近いうちに続編をお送りしたいと考えている。

 記事作成:12月29日(日)

勝手にランキング ~女性シンガー歌唱力編~

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 本日の記事は、一般論ではなく、まるっきり個人の主観的な見解でお送りするのであしからず。私がこの世に生を受けて早、半世紀近く時が経過し、その間、いろいろな歌やその歌い手を見てきた。時代によっては、可愛ければそれだけで良かったアイドルも大勢いたし、際立つ歌唱力を有しているのに、なぜか曲に恵まれずにひっそりと消えていった実力派シンガーもいた。何とももったいない話だ。時代の潮流にうまく乗れるか否かで、長続きするかどうかの分かれ道となるようだ。そこで今回は、冒頭でもお断りしたが、私が個人的な基準で歌が上手いと判断した女性シンガーを20位までランキング付したい。ただし、歌が上手くて当たり前の演歌歌手は除外させていただきたい。

 1位 小比類巻かほる 「Together」「Hold on me」など

 2位 NOKKO 「フレンズ」「Maybe Tomorrow」「ラズベリードリーム」など

 3位 MISIA 「Everything」「果てなく続くストーリー」「逢いたくていま」

 4位 吉田美和 「LOVE LOVE LOVE」「決戦は金曜日」「未来予想図Ⅱ」など

 5位 岩崎宏美 「ロマンス」「すみれ色の涙」「聖母たちのララバイ」「家路」

 6位 絢香 「三日月」「おかえり」

 7位 椎名恵 「今夜はANGEL」「愛は眠らない」「LOVE IS ALL ~愛を聴かせて~」

 8位 大黒摩季 「DA・KA・RA」「熱くなれ」「ら・ら・ら」

 9位 八神純子 「みずいろの雨」「パープルタウン」「」

10位 渡辺真知子 「迷い道」「かもめが翔んだ日」

11位 田村直美 「永遠の一秒」「ゆずれない願い」「地上に舞い降りた天使たち」

12位 西野カナ 「Best Friend」「会いたくて 会いたくて」「君って」

13位 宇多田ヒカル 「Automatic」「First Love」「SAKURAドロップス」

14位 aiko 「カブトムシ」「ボーイフレンド」「おやすみなさい」「戻れない明日」

15位 浜田麻里  「Return to Myself」「Open Your Heart」「Heart and Soul」

16位 一青窈  「ハナミズキ」「影踏み」「かざぐるま」 

17位 島谷ひとみ  「亜麻色の髪の乙女」「Perseus-ペルシウス-」

18位 弘田三枝子  「人形の家」「砂に消えた涙」「渚のうわさ」

19位 平原綾香  「Jupiter」「明日」「君といる時間の中で」

20位 倖田來未  「夢のうた」「キューティーハニー」「愛のうた」「FREAKY」

 他にも椎名林檎、竹内まりや、高橋真梨子、globeのKEIKO、美空ひばり、Kiroro、和田アキ子も歌唱力がある代表的なシンガーだと認識している。

 さて、本日はまるっきり個人の主観的な趣向によって持論を展開してしまったが、それぞれ受け取る印象は異なると思う。誰しも贔屓の歌手はいるだろうし、歌がうまいと感じる尺度も人それぞれなので、その辺はご了承願いたい。そして、大変申し訳ないが、「YouTube動画」の映像はリンクしないでおきたい。リンクしても著作権が危ういし、すぐに削除され、逆に迷惑をかけてしまうからだ。そうした諸般の事情もまたご理解いただきたいと思います。
 

 記事作成:9月16日(月)

想い出の曲⑥

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 私の半生の中で、特に想い出に残る曲を集めたシリーズ記事も今日で6回目を迎えた。人間いつの間にか長く生きていると、様々な名曲に出逢う。魂をゆさぶられるような歌、人生に大きな影響を与えてくれた歌、歌詞を聴くだけで感動で涙が止まらなくなるような歌、更には人生そのものを物語るようなスケールの大きな歌。「人は世につれ歌につれ」という名言を残してこの世を去った司会者もいたが、この歳になるとつくづくそう思う。
 さて、6回目を迎えた今日も3曲セレクトした。それは歌のタイトルに女性の名前が使われた歌だ。たぶん、シンガー自体にその人に纏わる大切な思い出なり、忘れられない出来事がたくさん凝縮されていて、だから歌に託し、その人との想い出に浸りながら、愛しい日々を回想するのだと思う。では、私が選んだ3曲を紹介したい。

 「順子」 by 長渕剛

元々はアルバム『逆流』(1979年)に収録されていた曲であった「順子」だが、有線放送で人気に火が付き、連続1位を獲得。1980年6月に、長渕剛の5枚目のシングルとしてリリースされた。1980年度の年間5位を獲得した。

 「SACHIKO」 by ばんばひろふみ

 1979年 - 1980年 ばんば自らが作曲を手がけた「SACHIKO」が大ヒット、自身の代表曲となった名曲。彼自身は京都府出身で、立命館大学経済学部を卒業しているが、在学中に知り合った石岡達雄、山本博史らと「ジャッケルズ」を結成しプロデビュー。その後、高山厳、今井ひろしらと結成した「バンバン」が『いちご白書』をもう一度などで人気を博した。深夜放送のセイ!ヤング(文化放送)のパーソナリティとして谷村新司と競演、「顔が大きい」という特徴をネタに聴取者からの投稿コーナーも含めかなりの弄られキャラを演じる。B型。

 「ゆうこ」 by 村下孝蔵

http://www.youtube.com/watch?v=O_hS83s0G8I

 1982年4月21日にCBSソニーより発売された村下孝蔵のデビュー3年目、4枚目のシングルA面の曲。のちに同年発売のアルバム『夢の跡』の2曲目として収録された。作詞・作曲は村下孝蔵本人、編曲は水谷公生。タイトルは、当時婚約していた元妻の名前から 村下孝蔵さんの元妻と娘。

 他には甲斐バンドの「安奈」や黒夢の「MARIA」なども名曲だった。女性の名前を題材にした歌は数多い。その名前に、どういう想いを胸に秘め、それを題材に選んだのかはそれを作ったシンガーにしかわからないが、想像するに、かけがえのない青春時代の甘酸っぱい恋心が背景にあったり、数十年経った今でも忘れえぬ貴重な想い出がその胸に去来している女性に相違ない。それが初恋の人だったらなおさらだ。今更時は戻らないが、きっと、彼女を想う時、青春時代のあの日に立ち返って、あの時自分の気持ちを素直に伝えていたらどうなっていただろうと妄想することだろう。淡い想い出は時の流れとともに、脚色され、色褪せるどころか、折に触れ、彼女の横顔を思い出す。男とは得てしてそういうものである。

 記事作成:12月中旬

 

今見ても可愛い70-80年代アイドル集

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 1980年代はアイドルの宝庫だということは誰もが認めるところだが、なぜかB型が圧倒的に多かった。個性的な性格であることに加え、楽天的に自分の興味があることにとことんのめり込み易い性質。それが芸能界であっても他人の目を気にせず、目的達成のために突っ走るその積極性が実を結ぶことが多い。この頃のB型アイドルは、松本伊代、堀ちえみ、菊池桃子、斉藤由貴、中山忍、河合さとみ、河合その子、南野陽子、中村由真、伊藤さやか、芳本美代子、松本典子、酒井法子、相田翔子など)挙げたらキリがない。個人的には多少ロリが入った色白ベビーフェイス系のO型アイドル(小泉今日子・伊藤つかさ・島田奈美など)が好きだったが。そんな中、今日は反論承知で今見てもキュートなB級的アイドルを9名挙げたい。白石まるみと河田純子(O型)以外は全員B型アイドルたちだ。

 相本久美子

http://www.youtube.com/watch?v=PmsAIvAzGPE

 彼女は1970年代のアイドルだった。彼女の代名詞は「TVジョッキー」のアシスタント。B型の特徴である細くて長い脚線美をミニスカートで惜しげもなく披露し、当時の男の視線を釘付けにした。

 白石まるみ

 彼女はタレント活動がメインで歌手はサブ的だった。今で言うグラビアでは絶大な人気があった。彼女の娘もまたグラビアアイドルの守永真彩。

 河田純子

http://www.youtube.com/watch?v=AwFZvLU4AAg&list=PLsbsI3mFuxpIoFwbhP25b1c4ACl9isjPx

 彼女の色白で妹にして守ってあげたい純粋培養的な雰囲気はまさしくO型の典型。島田奈美や伊藤つかさもこんな雰囲気だった。

 伊藤麻衣子

 こんな清純派の印象を受ける彼女だが、イメチェンを図って大映テレビの過激演出が話題のドラマ「不良少女と呼ばれて」のヒロインに抜擢されて、汚れ役を演じた時はファンの悲鳴が聞こえるようだった。体当たり演技は秀逸していた。

 伊藤美紀

 彼女の映像を見るたび、仲里依紗を思い出す。同じB型で、持っている雰囲気は似ていると思う。

 小沢なつき

http://www.youtube.com/watch?v=4ztJtECNVx8 ←ドラマ映像

 アイドルだったのにAV女優に華麗に?転身した時は世間をあっと言わせた。彼女は血液型不詳だが、大胆な行動パターンからしてB型っぽい。

 吉田真里子

http://www.youtube.com/watch?v=vGXjGk8t9aI

 彼女もまた少年マガジンなどのグラビアから火がついた。私は社会人になりたての頃、彼女のフォトエッセイや写真集などを持っていた。確かCDも何枚か持っていたと思う。清純派で、汚れを知らないようなメルヘンチックな雰囲気を漂わせていた。かまととっぽい印象がたまらない魅力だった。

 志村香

 彼女の印象は、アクティブ少女という感じ。ボーイッシュで躍動感を持っていた。

 吹田明日香

 彼女はお嬢様風の雰囲気を醸していた。それもそのはず同志社大学文学部英文学科卒業した才媛であった。甘ったるい感じが何ともいえなかった。

 B型はアイドルは、きゃりーぱみゅぱみゅや小倉優子もそうだが、夢見るドリーミングガール的な雰囲気や不思議少女のような印象がある。AKBでは、大島優子、柏木由紀、松井珠理菜奈、峯岸みなみがそうだ。本日取り上げた懐かしのアイドルたちではあるが、歴史は繰り返されるの通り、今のアイドルで顔立ちが似ている女子もいたのではないだろうか。私は日本人は血液型別にいくつかのパターン顔に分類できると思っている。

 さて、1980年代は空前のアイドルブームだったが、その世代の子供たちが今、AKBグループや乃木坂46などの多人数ユニットによるアイドルブームを支えている。当時のアイドルは、お世辞にも歌が上手いとは言えず、可愛ければそれで良かった時代だ。昨年大ヒットした「あまちゃん」の天野春子役の小泉今日子でもわかるとおり、1980年代はアイドルが時代をリードしていた。そしてその子供世代である足立ユイと天野アキが組むユニット「潮騒のメモリーズ」もまたその再来。一定の周期でミュージック界はサイクルがあるように思える。だとしたら、再びガールズバンドを主体とし、バンドブームが再ブレイクする時がまもなくやってきそうな気がする。 

 記事作成:1月8日(水)

THE 怪物列伝

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 今日は、主に野球界において「怪物」の名を欲しいままにした選手を取り上げ、そのテーマに相応しい映像をピックアップしてお送りします。

 甲子園の怪物「大阪桐蔭・平田良介」

 甲子園の怪物といえば、江川卓、清原和博、松井秀喜、松坂大輔が思い浮かぶが、この男も凄かった。1試合3発の大暴れをしたのが、大阪桐蔭高校平田。残りの1打席もライトフェンス直撃の大飛球をかっ飛ばした。スタンドは騒然となり、この怪物に割れんばかりの大声援を送った。この日の観客は、入場料が激安だったに違いない。この構えが独特で、大物スラッガーの風格が漲っている。ご存知の通り、彼は今、中日ドラゴンズのスラッガーとして活躍している。

http://www.youtube.com/watch?v=0SLO32aoQb4

 5打席連続敬遠

 松井の偉大さを物語る格好のシーン。ランナーがいようがいまいがお構いなしに勝負を避けて敬遠。明徳義塾の馬渕監督に非難集中。正々堂々をうたう高校野球のあり方を根本的に覆す迷采配。悪びれた様子もなくしゃーしゃーとインタビューに応じる監督に批判が集中し物議を醸した。近年、仙台育英の選手がファールで粘ってフォアボールを選ぶ戦法が審判から注意を受けたことがあったが、それよりえげつない。この晴れ舞台のために汗まみれになって練習してきた選手の心情をさかなでし、選手の気持ちを無視し、勝利至上主義を貫く愚かな監督。これが高校野球の真の姿なのか。大きな波紋を投げかけた、後味の悪いゲームとなった。

 松井の怪物ぶりがよくわかる動画(解説者もびっくり!)

 人生初のシーズン50号 http://www.youtube.com/watch?v=bgZZceSnxj8  

 球宴で160m級の特大の一発 http://www.youtube.com/watch?v=EGKNdU0cCRM

 3打席連続ホームラン http://www.youtube.com/watch?v=Idh7vzkmhuc

 看板直撃のサヨナラホームラン http://www.youtube.com/watch?v=o3OBSwV7Ky8

 メジャー本拠地デビュー戦で満塁アーチ

 http://www.youtube.com/watch?v=lp-12az2wIk

 <驚愕のプロ初登板> 

 松坂大輔編

 平成の怪物として鳴り物入りでプロ野球の道へ入った松坂。その初登板で、いきなり豪腕を披露。しかも日本ハムの強打者片岡を155キロの伸びのある速球で、力でねじ伏せた。

 大谷翔平編

 オープン戦初登板で臆することなく堂々としたマウンドさばきを見せた。日本一になった楽天を相手に何と最速157キロをマーク。場内は騒然。

 大物の片鱗を覗かせる煬に代わる代打での一発はコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=LbnBTRKEKT4

 ライトでの強肩披露

http://www.youtube.com/watch?v=s4OlV2_6goY

 記事作成:12月3日(火)~

今週の山岸舞彩キャスター(1/20~1/23)

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毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 1月20日(月)

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 1月21日(火)

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 1月22日(水)

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 1月23日(木)

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 来月行われる東京マラソンのフルマラソンに彼女が出場することが明らかになった。現在そのためのトレーニング中らしいのだが、全身が筋肉痛でつらいことがわかった。スポーツ万能の彼女なので、大丈夫だと思う。当の本人は完歩ではなく、あくまで完走をを目指すと意気込みを語っていた。


今年ブレイクしそうな芸能人

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 昨年から脚光を浴び、人気に火がつき、それを導火線として、さらに今年(2014年)大ブレイク間違いない芸能人を5人(ユニットを含む)取り上げたい。

 有村架純

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 あまちゃんの天野春子の高校時代を演じた彼女。彼女ほどこの一年でめまぐるしく状況が一変した女優さんもいないだろう。今や武井咲や北川景子、石原さとみをおさえてCMクィーンである。現代の若者でありながら、昔(1980年代)のアイドルの匂いを感じさせ、お父さん世代にも人気が高いようだ。あの愛くるしい笑顔は、かつてのキョンキョンそのもので、菊池桃子っぽいロリ系の雰囲気を兼ね備え、守ってあげたい妹的存在になるだろう。血液型はB型で、恋するドリーミング&メルヘンチック少女っぽい印象を持っている。

http://www.youtube.com/watch?v=hW251r55Xi0

 福士蒼汰

FukushiFukushi2

 彼もまた「あまちゃん」への出演をきっかけにブレイクした。まだ20歳という若さ。能年玲奈と同い年だ。ドラマでは潜水士を目指す高校生で「種市浩一」というイケメン先輩を演じ、アキちゃんにコクられた。甘いマスクと長身。母性本能をくすぐるようなさわやか好青年タイプ。血液型はO

 「あまちゃん」に出演した俳優・女優は、他のテレビ局ンドラマに引っ張りだこで、オファーが相次いでいる。小池徹平、杉本哲太&古田新、有村架純、渡辺えり、尾美としのりなど。

 筧美和子

Kakei2Kakei

 2013年9月14日、ワンライフモデルオーディションで準グランプリに選ばれる。9月23日、北海道日本ハムファイターズのイースタン本拠地最終戦で始球式を務める。10月5日、『めざましテレビ』の「ココ調」木曜リポーターに一般投票で選ばれる。私はこの番組の印象しかない。しかもアナウンサーと違ってコメントもベタで、まるで素人。噛みまくるし、つっかえるし・・・。
 しかし、彼女は中高生の間で人気絶頂の深夜番組テラスハウスに出演していただけあって、若い世代には認知度が高いようだ。血液型はAB

 

 橋本環奈

KannaKanna2

 福岡県の10代のモデルタレントを中心に結成されたアイドルグループ「Rev. from DVL」に所属する注目のアイドル。ほっともっと、J:COM、日本マクドナルドなどのCMに出演し、2011年には映画『奇跡』に出演した。Rev. from DVLの一員としても活動しており、2013年11月2日から4日にかけて東京都でイベントやライブを行った近年、ネットで人気を集めるとブレイクする傾向が増えている。もしかしたらキー局での出演が増えれば、一気にブレイクすることもありえるはずだ。血液型はAB

 ClariS

ClarisClaris_2

 クララとアリスの女子2名で編成されている 顔出しNGの女子高生2人組のアイドルユニット。デビューから2012年3月までは現役女子中学生として紹介されていた。「ClariS」は2人の名前を組み合わせた もので、ClariSという言葉そのものには、ラテン語で「明るい・清潔・輝かしい」という意味がある。2013年暮れまでにCDシングルを8枚リリース。バーチャルアイドル初音ミクに似ているが、こちらは学業優先ということと話題作りで顔を出さないが、リリースした曲は大ヒット。いずれもオリコンでトップ10に入った。特に7枚目シングルの「reunion」は第2位となった。

 ほかには、私が好きな山岸舞彩も、もしかすると女優転向が囁かれているし、若い頃の吉永小百合似の曽田麻衣子も映画やドラマへの出演をきっかけに知名度が上がれば、あれほどの古風で清楚な純朴風お嬢さんの風貌がウケて大ブレイクするかもしれない。

 記事作成:1月18日(土)~

 

 

マスコミに叩かれた有名人

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 今、マスコミの餌食となっているのは息子の犯罪で槍玉に挙げられた「みのもんた」と徳州会からの寄付を受け取っていた問題で取り沙汰されている猪瀬直樹東京都知事だ。僅か数ヶ月前までは東京五輪招致成功の立役者の一人として脚光を浴び、一種のヒーロー的存在だった筈だ。しかし、ひとたび問題が起きると、マスコミは正義を振りかざし、まるで国民を後ろ盾にして、その代弁者であるかのように強気に責め立てる。この変わり身の速さは一体何なんだろうと思う。かつてそうしたマスコミに追い回された気の毒な芸能人やスポーツアスリートは大勢いた。

 <芸能人>

 石原真理子

 彼女もまたスキャンダル続きで芸能界から干された。13人もの人気芸能人と関係を持ったとして暴露する自叙伝を発表。これが追放への布石となった。血液型はO

 倉田まり子

 5分20秒から

 1985年に「投資ジャーナル事件巻き込まれたことがきっかけで、本人は関係を全面否定するも芸能活動から引退する事態に追い込まれた。」“北浜の若獅子”、“兜町の風雲児”と持て囃された中江滋樹氏でしたが、一転して、多くの投資家を騙して多額の損失を与えた稀代のペテン師として、マスコミから集中砲火を浴びることになった。
 今から20年前の昭和59年8月24日、中江氏が率いる投資ジャーナル社をはじめ関連会社14社は、証券取引法違反によって警視庁の強制捜査を受け、あっけなく破綻した。

 中江氏にからんで芸能マスコミが袋叩きにしたのが、歌手の倉田まり子だった。中江氏の愛人と決めつけられ、7千万円の贈与を受けて豪邸を購入したとして連日のように、テレビをはじめ各メディアが大騒ぎしたもの。芸能界から引退後は、国際法律事務所の秘書、資格試験予備校LECの執行役員・講師を経て2003年に独立起業。坪田まり子の名でキャリア・カウンセラーとして、大学生への就職指導、企業・自治体向けのプレゼンテーション能力向上や営業力強化等の研修ビジネスを手がけ、各地での講演活動を行っている。血液型はO

 桜田淳子

 スター誕生出身で、山口百恵、森昌子とともに中3トリオ~高3トリオを結成。テレビやドラマ、アイドル歌手として一時代を築いた。しかし、統一教会に入信するようになってから事態は一変。しかも誰と結婚するか当日までわからない合同結婚式に出席することで、ファンへの裏切り行為としてマスコミから批判を浴びた。結婚後芸能界を引退。山口百恵とともに、ほとんど表舞台から消えた。血液型はO

 若人あきら

 テレビで若人あきら名義で郷ひろみの歌真似を隠し芸としてやったのがうけて、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)、『ひるのプレゼント』(NHK)などで一躍人気者となり、レギュラー番組も増えたが、全部歌真似番組で歌手としての活動が思うように行かず、このままでは歌マネのお笑い芸人と思われてしまい不本意だと悩み、ノイローゼ気味になり精神科に通院しながらもステージでは明るく装い歌マネを続けていた。だが、それがストレスとなり自律神経失調症になる。
 1991年、熱海市の海岸で釣りの最中突然行方不明となり、3日後に小田原市にて記憶喪失状態で発見された。この事件の際、年齢を6歳逆鯖読みをしていたことも発覚している。実際は自作自演だったという説が有力。血液型はB

 田原俊彦

 1994年2月、ジャニーズから独立する直前に長女が誕生した際の記者会見で、「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになってしまうと……」と語った、いわゆる“ビッグ発言”がマスコミの物議を醸す。この発言が響いたためか、翌1995年度には「an・an」の嫌いな男ランキング1位となり、メディアへの露出が急に減ってしまった。この「僕ぐらいビッグに…」発言云々は各マスコミから「生意気」「上から目線で何様なんだ」などと叩かれた。血液型はB

 若村麻由美

 2003年(平成15年)、宗教団体「釈尊会」の代表・小野兼弘と結婚した。小野とは、坂東三津五郎らが若き日より稽古、精進した日本舞踊の坂東流関係者を通して知己となり、結婚に至ったという。しかし、宗教団体代表との突然の結婚に、玉の輿と年齢が離れていたため、遺産狙いなどと罵られた。その後、小野は2007年(平成19年)4月、肝不全のために死去。結婚後は芸能活動が激減していたが、夫の死後、本格的な活動を再開している。血液型はA。

 酒井法子

http://www.youtube.com/watch?v=vrADI4PqzDw

 1986年(昭和61年)にアイドルとしてデビュー後、自らを「のりピー」と名乗り、同時に「ヤッピー」「いただきマンモス」「うれピー」といった、「のりピー語」も流行させた。
 1990年代以降には、アジア各地での人気も得るとともに、女優や歌手としても成功した。1998年(平成10年)に結婚し、一児をもうけたものの、2009年(平成21年)には夫と共に覚せい剤取締法違反で有罪判決を受けた。事件後、夫とは離婚、同事件の公判においては芸能界から引退の意思を裁判官に明言し無期限休業状態であったが、2012年11月に復帰した。血液型はB

 田代まさし

 大麻や覚せい剤に手を染め、度重なる逮捕。また盗撮やのぞきなどでも逮捕されるなどの懲りない人間。転落人生を絵に描いたような典型例。血液型はA

 板東英二

 板東は1988年に、国税庁の確定申告PRポスターのキャラクターに起用。また、名古屋市に住民票を置いていることから、確定申告の期間中に名古屋国税局へ出向く姿が東海地方を中心に毎年報じられてきた。2007年には、同国税局から感謝状を贈られている。しかし、名古屋国税局は2012年に、「オフィスメイ・ワーク」(かつて板東が役員も務めた事実上の個人事務所)へ税務調査を実施した。その結果として、2011年8月期までの7年間にわたって、約5000万円の所得を名古屋国税局に申告していなかったことが判明。所得隠しを含めた申告漏れの総額が約7500万円にのぼったことから、同事務所ではその事実を認めたうえで、ただちに修正申告と追徴税の支払いで対応した。名古屋国税局では、板東自身の指示で所得隠しを続けていた可能性を指摘。TBS News iなどでは、「架空発注などを含む悪質な所得隠し」と報じた。血液型はO

 「スポーツアスリート」

 江川卓

 1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売 ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動で ある。江川問題(えがわもんだい)、空白の一日(くうはくのいちにち)とも言われる。高校卒業時、大学卒業時、浪人生活時と過去3度、巨人以外の球団にドラフト指名されながら蹴り続けた彼は、マスコミのみならず、プロ野球ファンから総スカンを喰らい、連日激しいバッシングを受けた。血液型はO

 他には押尾学、みのもんた、矢口真里、中島知子らがマスコミに叩かれた芸能人だろう。

 それにしても、芸能界というところは不思議なところで、大麻や覚せい剤など麻薬汚染が危惧された時期が長く続き、芸能人の規範意識の薄さが問題になったこともあった。しかし、「人の噂も75日」とばかりに、ほとぼりが覚めると何事もなかったかのように、簡単に復帰しては、罪の意識がなくなり再犯を繰り返してしまう。清水健太郎、田代まさし、横浜銀蝿の翔、岡崎聡子らが懲りない面々だろう。芸能界は特殊な世界だが、露出度は高く、一般人に影響を与えることが多いだけに、他の模範となるような節度と良識ある行動、言動をしてもらいたいものだ。

 記事作成:12月19日(木)

 

バンドブームの隆盛と衰退(1970年代後半編)

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 1960年代から70年代にかけての日本は、戦後の混乱期から劇的に立ち直り、東京オリンピック開催や高度経済成長により、日の出の勢いで産業や経済が隆盛を極め、それは勢いに満ちた時代だった。政策にもやや強引さはあったものの、池田隼人の「所得倍増計画」や人間ブルドーザーの異名をとった田中角栄の「列島改造論」などで、人々の懐も潤い、豊かな生活を実現するに至った。そんな明るい時代にあって、歌謡界も劇的な変貌を遂げた。それまでの芸能といえば、民謡や演歌が主流だったが、ビートルズの出現と来日に感化された若者たちが、見よう見まねでバンドを結成し、1960年代後半には空前のバンドブーム、GSブームを創出した。代表的なグループは、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース(沢田研二・岸部シローなど)、ザ・テンプターズ(萩原健一)、ザ・スパイダース(堺正章・井上順)、ジャガーズなど挙げたらキリがない。そして、それが下火になると今度は、1970年代前半に現れのは、かぐや姫、吉田拓郎、井上陽水、かまやつひろしらを中心としたフォークブームが巻き起こり、カレッジフォークや新宿駅などではゲリラ的フォーク集会などが行われたし、嬬恋や中津川フォークジャンボリーなどの大規模なフォークの祭典が開催された。
 そして1970年代に入ると、天地真理、麻丘めぐみ、安西マリア、キャンディーズ、ピンクレディー、中3トリオ(山口百恵・桜田淳子・森昌子)、フィンガー5などのアイドルブームの傍らで、硬派系のハードロックバンドも活躍した。舘ひろしの「クールス」や矢沢永吉らの「キャロル」、さらには宇崎竜童率いる革ジャン軍団の「ダウンタウンブギウギバンド」などが独特なジャンルと楽曲を世に送り、バンドブームの先駆けとして活躍した。その後、入れ替わるように、ニューミュージックブームが突如隆盛し、世の中を席巻した。作詞・作曲・歌唱まで一手に引き受けるシンガーソングライターの登場だ。フォーク系だけでなく、ロック系のバンドも数多く登場した。もちろん、松山千春、さだまさし、南こうせつ、山下達郎、原田真二、小坂明子、八神純子、渡辺真知子、中島みゆき、荒井由実、大橋純子、高橋真梨子、久保田早紀、五輪真弓などの実力派のソロシンガーも数多くヒットチャートを賑わしたが、それ以上に歌謡界を牛耳ったのはバンドだった。
 今日は、この1970年代後半に登場したバンドの中で、特に際立った活躍を見せたビッグネームを10組取り上げたい。ただし、YouTubeのリンク曲は、スペースの都合上、代表曲の一曲のみとさせていただきたい。

 1 アリス 「冬の稲妻」「帰らざる日々」「今はもう誰も」「ジョニーの子守歌」「チャンピオン」

 私の中学時代の神的バンド。ギターを弾くようになったのも彼らの影響だし、彼らの楽曲をコピーしてはアポロキャップを目深かに被り、クラスで歌っていた。一緒に歌っていたのが箭内道彦だった。彼らのライブ盤のLPレコードはファンの間で伝説となっているし、ソロ活動も凄かった。谷村新司の「昴」、堀内孝雄の「君の瞳は10000ボルト」など。私個人では「秋止符」や谷村新司の「Far away」、堀内孝雄の「遠くで汽笛を聞きながら」、「愛しき日々」が大好きだった。

 2 海援隊 「思えば遠くへ来たもんだ」「母に捧げるバラード」「贈る言葉」

 海援隊は「金八先生」として武田鉄矢がドラマでメジャーになるまで、正直あまりパッとしなかった。それでも都会に旅立った男が故郷を懐かしく想う「思えば遠くに来たもんだ」は好きだった。小学生の頃に開成山公園で開かれた素人カラオケ大会で友人とステージに立ち、「母に捧げるバラード」を歌ったが、あまりに緊張して声が出なかったことを覚えている。また、西城秀樹の「ヤングマン」のY・M・C・Aと一文字ずつ表現する振りをパクったJODAN」(冗談)という曲が大笑いだった。

 3 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」「いとしのエリー」「わすれじのレイドバック」

  青山学院大学出身の桑田佳祐と原由子らが中心となり結成して活動したエリート学生バンド。ハチャメチャで卑猥な歌詞と奇抜で斬新なメロディーであっという間に当時の若者の心をつかんだ。当時は、夏場限定バンドという印象で、「いとしのエリー」の爆発的ヒット以降、ヒット曲に恵まれず、不遇の時代が続いたが、「チャコの海岸物語」で不死鳥のごとく甦った。

 4 ツイスト(世良公則&ツイスト)「あんたのバラード」「銃爪」「燃えろいい女」

 私が中1から中2にかけてのNo.1人気を誇った。男っぽいセクシーなアクションの振り付けで当時の女性はメロメロとなった。リンク映像は、過去何度も削除されていますので、保証はできません。あしからず。

 5 ゴダイゴ 「ガンダーラ」「モンキーマジック」「銀河鉄道999」

 この曲は堺正章、夏目雅子が出演した「西遊記」のエンディングテーマとして使われた。このバンドはエキゾチックムード満載だった。それもそのはず、ミッキー吉野やトミースナイダー、スティーブなどハーフやネイティブがメンバーの半数を占め、ヴォーカルのタケカワユキヒデも東京外大出のエリートだった。メンバーひとりひとりがプロ中のプロの演奏家出身で、楽曲の完成度はピカイチだった。

 6 オフコース 「愛を止めないで」「さよなら」「Yes No」

 初期は、小田和正と鈴木康博の2人組で、フォークを基調とした名曲を世に送り出していたが、折からのバンドブームにより、ニューミュージックっぽい音楽に路線が変わった。そしてメンバーを5人に増やし、ポップス系の楽曲を取り入れるようになった。小田の透き通るような甲高い美声に世の女性は癒され、魅了された。

 7 チューリップ 「心の旅」「虹とスニーカーの頃」「青春の影」「サボテンの花」

 ご存知、財津和夫率いる老舗バンドだ。ピアノ奏者がメインヴォーカルというのは、オフコースと路線も局長も似ているが、「浅春の影」はファンのみならず、カラオケファンやオヤジ世代にも好まれ、まさに神曲である。

 8 甲斐バンド 「HERO」「裏切りの街角」「安奈」

 私の中では甲斐バンドは、他のロックバンドとは一線を画し、硬派系のイメージでとらえていた。だから「HERO」という、その後のHOUNDDOGの「ff」に似た活力を与えるメジャーソングを繰り出した時には意外だった。

 9 クリスタルキング 「大都会」「蜃気楼」

 彼らの出現は、新たな時代の幕開けを予感させるような衝撃があった。最前列に2人並び、好対照なハーモニーを奏でるスタイルは業界初だった。強面で低音ハードボイスの吉崎勝正と3オクターブもの高音域を難なく出せる超ハイトーンボイスの田中昌之との絶妙なハーモニーは聴き応えがあった。真似してカラオケで歌おうとすると、血管が切れそうで、声帯も痛めそうだった。もちろんヤマハポプコン出身で、世界歌謡祭グランプリ受賞経験者である。
 個人的には下にリンクする「蜃気楼」のほうが名曲だと思っている。リンク映像は、過去何度も削除されていますので、保証はできません。あしからず。

http://www.youtube.com/watch?v=Lh3yWGxazIo

10 RCサクセション 「雨上がりの夜空に」「DAY DREAM BELIEVER」

 リーダーでヴォーカルの忌野清志郎は、露骨な歌詞と風変わりな作風、パンク系の奇抜なファッションと過激かつシンボリックでいて、ド派手なパフォーマンスを繰り広げて、主にステージで躍動したシンガーだった。私はさほど聴かなかったが、高校生時分に、熱狂的ファンだった友人がいて、彼らのレコードをすべて所有していた。わざわざコンサートを見に、東京まで足を運ぶほどの筋金入りだった。「King of Rock」の異名をとった。

 他にも一風堂、アラジン、トム☆キャット、もんた&ブラザーズ、YMO、などがいた。この時代はヤマハポプコン出身のソロシンガーやデュオ、さらにはバンドが多かった。

 1980年代に入ると、より個性的なバンドが多くなった。C-C-B、安全地帯、レベッカ、アルフィー、ラッツ&スターズ、SUGAR、杉山清隆&オメガトライブ、TMネットワーク、ザ・チェッカーズ、Hound Dog、ザ・ブルーハーツ、プリンセスプリンセス、The TUBEなどがそうだ。

 彼らは紛れもなく一時代を築き、彩を添えてくれた功労者たちである。今でもバンド活動を続けている息の長いグループもいれば、残念ながら様々な理由で解散してしまったり、惜しまれながら亡くなられたメンバーもいる。栄枯盛衰を感じる。しかしひとつ言える確かなことは、彼らが時代を作った名曲は、その後も歌い継がれ、またその影響を過分に受け、彼らのようなバンドを目指して活動して一流歌手の仲間入りを果たしたグループがいるという事実だ。彼らの残した功績は次の世代に受け継がれ、イカ天に代表されるような1990年代の第2次バンドブームを構築したその起爆剤になったことは紛れもない事実だ。音楽とは、誰かに魅せられ、それを手本として自分のオリジナリティーを追及することでよりよい名曲が生まれていくのだろう。今後もそうあってほしいと切に願う。

 記事作成:1月22日(水)~

想い出の曲⑦

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 今の若い人には無縁に近い過去の遺物に思われるかもしれないが、私が小学生時代は、芸能界といえば、天地真理とフィンガー5が牛耳っていた。その後、キャンディーズやピンクレディーや中3~高3トリオ、新御三家などが登場し、華やかな流行歌を生んだ。そんな中、フィンガー5の存在は別格だった気がする。今日は想い出の曲には間違いので、特別に「フィンガー5」の曲で、私が印象深いものを5曲紹介したい。

 まずは、彼らを知らない世代のために軽くプロフを掲載したい。

 1970年代を中心に活躍した男女混合 歌謡アイドルグループ。メンバーは沖縄県出身の5人の兄弟(男4女1)であり、ダンスを こなしながら歌うスタイルと、メインボーカルの四男・晃の変声期前のハイトーンボイスとその歌唱力やルックス、独特の演出、良質な楽曲などで爆発的な人気となり、ミリオンセラーを飛ばした。米国占領下の沖縄で、父親が米兵相手のAサインバーを経営していたこともあり、アメリカのロック、ポップスに触れる機会が多い環境のもと、当時小学生だった長男・一夫、次男・光男、三男・正男が「オールブラザーズ」という名でバンド活動を始める。オールブラザーズは沖縄のテレビ番組のコンテストで優勝したのを契機にテレビ局のプロデューサーに薦められ、翌1970年、ベイビー・ブラザーズと名を変え、メジャーデビューを果たす。
 初めてのテレビ出演は、子供の視聴が多い土曜の夕方を狙って放映され、放映直後のテレビ局には問い合わせの電話が殺到した。翌1973年にリリースした「個人授業」がミリオンセラーとなり、一気に知名度が上がる。その後「恋のダイヤル6700」「学園天国」などをリリース、いずれもミリオンセラーとなった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲のテーマは学校における恋愛で一貫していた。
 5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳であり、まだあどけない姿で大人顔負けのステージをこなす姿が人気となった。また晃は特大のサングラス姿がトレードマークとなっており、それが流行にもなった。

 1 恋のダイヤル6700

 リンリンリリン・・・で始まるリズミカルでアップテンポな曲。何を隠そう私はこのレコードを持っていた今でも実家の倉庫を探せば、あるはずだ。希少価値かもしれない。

 2 学園天国

 この曲は、カラオケで盛り上がるが、小泉今日子がカバーしたため、どちらかというと彼女の持ち歌というイメージが強いが、私たちオジサン世代には、元祖アイドルのフィンガー5のオリジナル曲という印象が強く残っている。

 3 恋のアメリカンフットボール

 PVがアメフトスタイルで、ステージでも同様の格好(今でいうコスプレ)で歌い、曲のイントロ部分ではボールセットし、それを走りこんで蹴るパフォーマンスがあった。

 4 個人授業

 この曲もレコードを持っていた。今、こうして40年近く前の映像なのに、これほど状態よく見られるのは奇跡に近いし、嬉しい限りだ。

 5 バンプ天国

 「恋の大予言」や「華麗なうわさ」も大好きな曲だった。ベイシティローラーズの和製版のような印象があった。踊れるグループアイドルの走りだったし、フォーリーブスと双璧だった。

 さて、懐かしんでいただけたでしょうか。昭和40年代(1970年代)に大人気を博し、芸能界を席巻したグループだった。人気が翳りが出たのは、当時タブーとされていた人気絶頂の売れっ子の時期に渡米してしまったこと。これをきっかけに人気は急落した。

 私は以前、ブログで記事にしたことがったが、地方公演で磐光パラダイスに来た際、見に行き、ゲームセンターに興じる彼らとそれを追いかけ、取り囲むファンの間でお話ができた。私の前で妙子にサインを打ち切られ、がっかりした想い出があるし、その後、あきらめきれずに隣接する磐光グランドホテルに潜入し、彼らが泊まっているであろう部屋を探してホテル内を探索して歩いたこともあった。するとエレベーターが開いて、彼らと偶然鉢合わせになって、目の前に5人が現れて逆にビビった記憶がある。

 記事作成:1月16日(木)

今は亡きお笑い芸人 前編

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 「芸は身を助く」ということわざがある。これは秀でた一芸を身につけていれば、一生食いつないでいけるということを意味する。それほど他人にまねできない優れた芸を身に着けることは至難の業である。苦節何年というように、芸能の世界は厳しくそして難しい。板前の修業と同じで、一流になるまで一筋縄ではいかず、才能があっても世間に認められるようになるまでに多くの月日を費やす。この世界は、技を盗めといわれるほど自分スタイルや売りを確立するまでは途方もない時間がかかる。よくアイドル歌手にありがちなオーディション一発でなったようなシンデレラストーリーストーリーとはおよそ無縁世界である。何年もかけて日の当たらないような日陰でひたすら芸を磨き、いつめぐってくるかわからないチャンスを待って、地方巡業や小汚い三流の演芸場でどさ周りも多数。在る者は弟子入りし、かばん持ちや下働きを何年もかけて行い、下積みに長い月日を費やすだろうし、また或る者は、場末のスナック巡りや流しスタイルでその日暮をしている輩も多く、途中で挫折して諦める者も決して少なくないと聞く。やはり、本物の芸を身に着けるまでは相当な苦難と苦労を覚悟しなければならないようだ。
 そこで、今回は、自らの芸を確立し、一流芸人として一世を風靡した方々を取り上げ、生前の活躍を偲びたいという企画だ。ただし、落語家を含めると膨大な数に上るため、今回は割愛させていただきたいと思います。
 

 早野凡平

 「ホンジャマーの帽子(ホンジャマカ帽、マジックハットの異名もある)」と呼ばれる、帽子を用いたが有名。この帽子は帽体とツバの部分が分離するようになっており、早野は慣れた手つきで黒い帽子を様々な形に変形させて、有名人や動物の真似をして人気を博した。「牧師」、「スチュワーデス」、「ナポレオン」、「カウボーイ」、「ローマ法王」(なぜか2度やってしまう)、「鞍馬天狗」(名乗る際、頭巾に見立てた帽子が落ちてしまう)等が定番ネタ。「ホンジャマー、ホンジャマカ…」と舌足らずな歌を歌いながら、次々と繰り出すのが特徴。
 この帽子芸によりテレビ出演も増え一躍人気者となり、舞台トークのネタとして「この帽子のおかげで練馬に家を建てることができました」と語っていた。
 帽子以外の芸としては、長さが異なる4本の蛇腹状のホースを振り回して音を鳴らす「パイプオルガン」がある。4本のホースを器用に使い分け、低い音を出すときはゆっくり振り回し、高い音を出すときは早く振り回す。レパートリーは、「黒田節」、「船頭小唄」など。
 1980年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
 1990年5月3日、転移性肺癌のために50歳で死去。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=knN6WRACO6k

 星セント・ルイス

 星セントと星ルイスからなる、日本の漫才 コンビ。1971年結成、2003年解散。
 星セント(1948年1月16日 - 2004年7月22日)主にボケ担当。メガネの方。
 星ルイス(1948年11月17日 - 2005年3月10日)主にツッコミ担当。
 

 1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身のセントが早口でギャグをまくし立て、小さなルイスがつっこむというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気者となる。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=m40-82sF8iI

 鳳啓介

 本名は小田 啓三。1923年3月16日 - 1994年8月8日。大阪府大阪市出身。 お馴染みの挨拶である「鳳啓助でございます」や 「ポテチン」、「あら、言いそこ間違いよ」などのギャグで人気を博した。その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。
 1994年8月8日、リンパ腺の癌により死去。71歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=NCT1RZNWbLI  

 牧伸二

 ウクレレ漫談の第一人者。本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月 29日)は、日本のウクレレ漫談家。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。 血液型AB型。 ハワイアンをアレンジした曲に、「あ~あやんなっちゃった~あ~あんあ驚いた」などのフレーズで 社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールにも挑戦した。歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』で人気者になり、早くも1960年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。この『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(英題"Hawaiian War Chant"、ハワイ先住民のポリネシア人の戦意昂揚歌)をアレンジしたもので、時世に応じた1500余の歌詞ストックがある一方、牧自身も舞台で原曲を披露することがある。
 1963年にはテレビ朝日の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978年まで15年にわたり司会を務め、番組内の名物コーナー『マキシンのバーゲンセール』を通じて『あゆみの箱』チャリティー活動に貢献した。また九州朝日放送の素人演芸会『マキシンの東芝ハレハレ555』等でも司会を務めた。
 1965年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
 2002年に脳出血で療養とリハビリを余儀なくされるが、復帰後の2003年に文化庁長官賞を受賞。
 2011年7月3日、自宅でタバコの火の不始末からボヤを起こした。自身と妻、娘の3人で消火にあたり、消防車が到着した頃にはほぼ鎮火していた。
 2013年4月29日午前0時15分頃、東京都大田区の多摩川丸子橋付近で投身し、病院に搬送されたが死亡が確認された。入水自殺とみられる。78歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=AUTFGYAgwHo

 レオナルド熊(コント・レオナルド)

 本名:井上 千蔵 <いのうえ せんぞう>、1935年6月27日 - 1994年12月11日)は、北海道樺戸郡新十津川町出身のコメディアン。石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキーパンチ』『コント・レオナルド』で一世を風靡した 。
 若手中心の漫才ブームの中で比較的年輩の熊が、政治、経済、時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは異色で、人気を不動のものにする。1983年に出演したサントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな」は流行語になり、広く知られた顔になった。土方スタイルでねじり鉢巻きがトレードマークで、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』では、美女が座る椅子を溺愛する変態男を演じ、怪優としての側面も見せた。
 1994年10月に末期の膀胱がんと診断され、ホープ、マギー司郎らの『田端グループ』によって「ガン祝いの会」を開かれた。2ヶ月後の12月11日、家族と焼肉を外食した直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で死亡が確認された。59歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=YsubWVKXAnc

 三波伸介

 本名:澤登 三郎(さわと さぶろう)、1930年(昭和5年)6月 28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。 昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。 1961年に伊東四朗(三波が大阪にいた頃、三波伸介という芸名で活躍していた時期があった)、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成。舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。
 1970年に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任。その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。
 1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝した。52歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=kzGCDyefvjE

 ウガンダ・トラ(ビジーフォー 1952年6月6日 - 2008年5月31日)

 タレント、ドラマー。本名、 佐藤 信一郎(さとう しんいちろう)。『ビジーフォー』元メンバー。 東京都港区六本木出身。
 1977年、元ザ・クーガーズの島田与作が立ち上げた『いそがしバンド』に、盟友の高田"ぐっち"裕三、スリム冬樹と共に参加し、トラ佐藤(後にウガンダ)の名でドラムとボーカルを担当。『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』にセミレギュラー出演し、童謡コーナーではキャンディーズと共演した。
 1979年の『金曜娯楽館』へのレギュラー出演と前後して『ビジーフォー』に改名。クレイジーキャッツからザ・ドリフターズへと続く、ナベプロ伝統の技巧派コミックバンドとして期待が掛けられたが、余興だったはずのものまねで売れてしまう。1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを脱退。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』、『オレたちひょうきん族』などに出演。
 2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳没。永年の鯨飲馬食による肝臓病、糖尿病、心臓病、脳梗塞などの悪化が懸念されていたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発動画はコチラ→表されている。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=6QbWBX26YMs

 中島忠幸(カンニング:1971年6月14日 - 2006年12月20日)

 お笑いコンビ「カンニング」のツッコミ担当であった。お笑いのネタ中では相方の竹山隆範があまりにもキレるため、専らなだめ役となっていた。しかし、稀に竹山が暴走しすぎた時など、竹山以上の勢いでキレて竹山を黙らせていた。
 普段は竹山より短気な性格で、竹山がネタ中の暴言で迷った際には、強く通したこともある。また『エンタの神様』において視聴者に電話で意見を求めた際も、その苦い発言に対して流そうとする竹山に対しキレた強い発言をするなどした。板前の経験から『笑いの金メダル』の『グリルの金メダル』や『めちゃ×2イケてるッ!』の『やべっち寿司』でもその腕前を披露。2005年(平成17年)1月15日には東京都で開かれた『全日本鍋物コンテスト』に『辻よしなり ラジオグラフィティ』のチームで参加。しかしながら、後述の理由から入院中となってしまい、レシピのみ提出による参加となる。
 結婚同年の2004年(平成16年)12月から病気療養を理由に休業、翌2005年(平成17年)1月、白血病(急性リンパ性白血病)の治療中であることを公表した。
 2006年(平成18年)1月には臍帯血移植を受けて軽快傾向とも伝えられたが、ウイルス性肺炎の併発によって同年12月20日午前11時46分に死去した。35歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=_P9M1-febbQ

 瀬戸わんや(獅子てんや・瀬戸わんや)

 獅子てんや。瀬戸わんやは、戦後長きに 亘り活躍した漫才コンビ。大柄のてんやが、小柄で額の禿げ上がったわんやをいびり、 わんやがムキになって怒るスタイルで人気を博した。
1956年(昭和31年)産経新聞社主催若手漫才コンクールに国定忠治の出し物で一位、翌年の第1回NHK新人漫才コンクールにも「世界旅行をかえりみて」というネタで優勝し、並居る若手漫才の中で図抜ける。新作に取り組む姿勢は積極的で、その中から「ひよこと卵」「なんで行ったの」などの定番ネタが磨かれた。
 1966年(昭和41年)から約14年間放送されたTBS『家族そろって歌合戦』の司会でも全国的人気を博した他、1967年(昭和42年)に第7回日本放送作家協会大衆芸能賞受賞、フジテレビ放送演芸大賞も二度受賞し、テレビ・ラジオで重宝がられる。
 わんやが健康面に不安を抱えた1970年代中頃から、思うような反応を見せられないわんやに対し、てんやが客前で苛立った表情を露にするようになり、それに対してわんやがふて腐るなど、稽古不足も相俟って晩年の舞台は荒れて行った。1987年(昭和62年)遂にわんやが病に倒れて活動休止、そのまま復帰叶わず亡くなり、コンビも消滅した。

 獅子てんや(しし てんや、1924年(大正13年)6月25日 -現在もご存命 )東京府荏原郡平塚村(現・東京都品川区)下蛇窪生まれ、本名:佐々木 久雄(ささき ひさお)ボケ。

 瀬戸わんや(せと わんや、1926年(大正15年)3月10日 - 1993年(平成5年)2月10日)大阪市南区(現・中央区)生まれ、本名:妹尾 重夫(せのお しげお)ツッコミ。
 1987年に糖尿病の悪化で事実上の引退。1993年、脳梗塞で死去、享年66。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=-YK8WvFAI7U

 松本竜介(紳助・竜介)

 1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成した。紳助 が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である。漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人一員として一世を風靡する。駆け出しの頃から女遊びが激しく、当時関係を持った女性は300人を軽く超えるといわれた。1980年に結婚を発表しているが、夫人も女遊びの末に手に入れた夫人である。1983年には芸名を竜助に改名。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。その後吉本を去り、新たな相方と「竜助 ポン太」というコンビを組むが、売れずにほどなくして解消する。
 その後、映像制作会社を起業し、タレント活動も続けるが、1996年頃より吉本興業と疎遠になり、1998年に、喫茶店、アダルトビデオ製作などの副業失敗で1億3000万円の借金を抱え、自己破産した。破産管財人は、淀屋橋合同法律事務所の阪口彰洋弁護士であった。自己破産を理由に吉本からはほぼ絶縁状態になる。晩年は名古屋の風俗レポーター、大阪ミナミの風俗案内所長などの職を転々とし、大阪の歓楽街で話題になっていた。
 2006年3月22日、案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。49歳没。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い。救急車を呼んで欲しい」であった。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=DHcnhtFfz_0

 本日は長くなったのでここまで。本当は20人一挙に紹介して生前の活躍に敬意を払い、ご冥福をお祈りしつつ、当時を偲ぶ予定だったが、思い入れが深く、ひとりひとりの記事が長くなってしまったため、急きょ前編と後篇に分けて2回シリーズでお送りしたい。ご了承願います。

 記事作成:1月7日(火)~

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