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Channel: 時遊人SUZUのひとり言
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ちょっと昔の旅 ~想い出の場所回顧~

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 このGWを利用して、過去にタイムスリップする意図で、想い出のスポットへ足を運んでみた。それはもう四半世紀近く経つ、家内と出会った場所や結婚式を挙げた場所、そして14年が経過した実の父とお別れをした場所だ。
 時間と言うのは無情なもので、人を老化させるだけでなく、記憶まで薄らいでしまうものらしい。そうした想い出のひとコマまでも奪われないように、今回、この訪問を思い立った次第だ。ちなみに訪問したのは朝から快晴青空の5月4日(金)のAM6:14~AM7:00だ。
なお、時系列ごとではなく、この日に訪問した順番に掲載します。

 1 家内と出会った場所 「カフェテラス四季」

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                                                内部はこうなっている
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 平成5年に私たちは叔母の紹介で出会った。ガーデンテラスがあってオシャレな造りだった。ここのパスタは美味かった。「ワンスアポンアタムインアメリカ」や「カフェドカフェ」、「飛行船」が定番の食事場所だった。

 https://tabelog.com/fukushima/A0702/A070201/7000242/

 https://tabelog.com/fukushima/A0702/A070201/7003718/

 2 結婚式を挙げた場所 「椿山荘」(現在は記憶の森)

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 久留米の桜の名所、五百渕公園のほとりにある結婚式場。平成6年7月3日、ここの神殿式で結婚式を挙げ、その後、新装なった「グランプラス」(実際は当て字の漢字表記)という会場で披露宴を行なった。

 https://kiokunomori.cocolonet.jp/

 訪れて見て驚愕。純白なイメージを漂わせえる白亜の式場にリニューアルし、昔の面影はどこにもない。外観もエントランスの造りも劇的に変わった。一周したが、池の周囲では付近住民によるボランティア活動が朝早くから行われていた。

 3 父親を見送った「懐想記念館久留米」(現:たまのやこころ斎苑久留米)

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 父親の高校時代の同級生が社長を務めていた「サークル」という互助会に入会していたため、やはり久留米にあったセレモニーホールで葬儀告別式を執り行った。平成15年の年も押し迫った12月29日に亡くなり、大晦日に須賀川市の火葬場で焼骨し、正月明けの1月6日、雪が降る中で告別式を行った。

 http://www.e-sogi.com/detail_hall/id1000000000-009676.html

  訪ねたこの日は催事はなさそうで、駐車場もガラガラで閑散としていた。催事場が暇なのは喜ばしいことと認識・・・。

 4 水天宮

 小学生の頃に亡き父親と何度もキャッチボールやノックをしてもらった想い出の場所。親父が亡くなった時、この目の前にある「懐想記念館」で通夜をやった折、夜中に水天宮を訪れ、夜空を見上げたら、真冬だったため、満天の星空が美しかったことを思い出した。

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 子供の頃はあんなに広く感じたのに、とても小さく狭く感じたのは、自分が成長した証と実感した。早朝にもかかわらず、バックネット付近で親子がキャッチボールしていた。あの日の自分と重ね合わせることができた。

 5 結納を交わした場所 

 平成6年1月に結納を交わした。家内の振袖姿を初めて見た。家内は当時、鈴木杏樹に似ていて、身長も164cmあってスリム美人だった。

 http://www.homemate-research-wedding.com/dtl/20000000000000001147/

 残念ながら、いくら探しても持つからず。もしかしてもう解体した?趣のある屋根がドーム型でエレガントな造りの建造物だったのだが・・・。
 その後、内環状線沿いのステーキ宮と郡山信金にあったその建物は「オフィスタツミ」という会社になり、そこからR49線を越え、200mほど南東に行った「記憶の森」の北側へ移転したことが判明した。

 6 父親が亡くなった病院跡

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 震災で損傷を受け、その後閉鎖。しばらくはそのまま建物自体はそこにあったが、希望が丘へ移転した。その後、取り壊された。
 平成15年12月28日の仕事納めに母親から電話を貰い、病院嫌いで渋る親父を無理やり連れて行ったら、40℃の高熱で即入院。翌朝には亡くなってしまった。私は痰を器官に詰まらせた医療ミスだと疑っていたが、タバコの吸いすぎで肺気腫を患い、呼吸器疾患だったと思う。翌日、医師に呼び出されたときには意識不明。心電計は横に一直線の波形で、長男到着時を死亡時刻とした。看病もせず、ひとりで天国へと旅立ってしまった。
 年の暮れだったこともあり、実家から至近で、当番医がここしかなかったため、やむを得ずこの病院に連れて行ったが、大病院に行っていたら、もしかしたら助かったかもしれないという懺悔の気持ちがしばらく続いた。

 7 結婚前、結婚後に最初に移り住んだ富久山町のアパート

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 「愛の巣」はR288から少し入ったところにあった久保田字本木のアパートだった。平成6年4月から移り住み、子供が生まれた後の平成7年12月下旬まで約1年8か月暮らした。当時は益子建築工業の参加のマストモ設備が工事を請け負った新築物件だった。部屋が3つある3DKで、家賃は56,000円だった。2階の南端の角部屋だった。
 家内の実家からも近く、当時私は船引町にある職場へ通勤していたので、郡山市街地を通らなくて良かったので、通いやすいメリットがあった。

 http://www.homes.co.jp/archive/b-9182694/u-20476940/

 実際に訪ねてみると、住んでいたのはもう20年前なので、いくら当時新築とはいえ、かなり年季が入って古くなっていた。20年の歳月とはこんなにも変わらせてしまうのか・・・。

 さて、個人の感傷に浸るような手前味噌な記事になったが、「人に歴史あり」を地で行くものとなった。この四半世紀、様々なことがあった。2人の子供に恵まれ、両者ともに大学生となり、長男は一流のハウスメーカーへの就職が内定した。技術職で設計を希望している。

 今回は個人情報を暴露してしまった感が強い記事になってしまったが、他人が見たら何の変哲も無い個人の感傷のようなものになってしまった。しかし、人には忘れられない人生の足跡や証のようなものがあり、それを備忘録としてどこかに留めておきたいと願ってのものだということを理解いただきたい。

 最後に、長い歳月を経て、名称が変わったスポットも多い。いろいろあったが、半生を振り返ると決して良いことばかりではなかったが、波乱万丈ではなく、大過なく、安定した生活を送れたことは、家内に感謝しなければならないだろう。

 記事作成:5月4日(木)~5日(金)


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