あの怪物「江川卓」ですら200勝には程遠い成績だった。PL学園で圧倒的強さを誇ったKKコンビの桑田真澄ですら名球会には及ばない成績で、平成の天才打者として名を馳せた高橋由伸でさえも2,000本安打まで到達できなかった。
プロ野球選手は、プロ入り前の実績がいかに凄く、いくら鳴り物入りで入団したとしても故障やケガに泣かされ、あっけなく球界を去った大物選手が数多くいる。逆の見方をすれば、現役生活が極端に短くてもプロ野球はファンを唸らせ、記憶に残る選手もまた多くいる。今日はそうした後者にスポットを当てたい。
1 今中慎二
1980年代、中日ドラゴンズの左腕の絶対的エースとして君臨した。細身の体型から腕を撓らせて、140キロ台後半の快速球を打者の胸元に投げ込み、バッタバッタと三振に斬ってとり、強打者には意表を突く、超スローカーブで相手を翻弄し、手玉にとった投手だ。その球速差はなんと59km/h。相手はその緩急の差に戸惑い、面白いようにバットが空を切った。
現役生活は中日一筋で12年間だったが、相次ぐ故障に泣き、実働は1990年から1996年までの7年程度だった。233試合に登板し91勝69敗だった。被本塁打は115本と極めて少なく防御率は3.15。江川が266試合登板し、被本塁打253本だったことを比べても半数以下。いかに優れた投球術を備えていたかが窺える。その江川もまた大卒後、1年間、巨人に入りたいがために浪人した結果、現役生活はたったの9年、33歳で幕を引いた。工藤や山本昌がしぶとく現役を続けたことから考えても、アマ時代の凄い実績を引っさげた割りには長続きしなかった。
今中慎二の神話 https://www.youtube.com/watch?v=oRoGiAaFJn8
2 津田恒美(恒実)
彼は私が心底尊敬して止まない名投手。炎のストッパーと呼ばれ、その闘志むき出しの
気迫溢れる投球はファンを魅了した。「弱気は最大の敵」と帽子のツバにしたため、マウンド上ではひたすら自分の弱気と闘っていた。私は彼が南陽工業のエースだった時から彼
の凄さを目の当たりにしていた。確か甲子園大会での対戦をスコアブックにつけていた。
彼も細い体型から全身のばねを利用し剛速球を投げ込んでいた。そして決め球は打者目線で消えたと称される急角度で落ちる高速フォーク。常に真っ向勝負を挑み、巨人の4番だった原との対戦では、彼の速球に対し、フルスィングした際に、原の手首を粉砕骨折し
たほどの威力だった。
しかし、彼は或る日、激しい頭の痛みに見舞われ、病院での診察の結果、悪性脳腫瘍と
診断され、闘病生活を余儀なくされた。夫人の懸命の看護にもかかわらず、彼がふたたび
マウンド上にその雄姿を見せることはなく、32歳で若くしてこの世を去った。
多くのファンに愛され、ライバル選手からはリスペクトされた名投手だった。
1982年入団、1991年退団。現役生活は10年だが、実働は8年だった。
286試合に登板し49勝41敗90セーブ、奪三振は542、防御率は3.31だった。
彼のマウンド上での魂の投球は、未だにファンのまぶたに焼き付いていると思う。
3 盛田幸妃
彼も志半ばで散った名投手だった。1988年に大洋(横浜)に入団。1992年には14勝を挙げてエースになったが、その後、右膝靭帯損傷に苦しんだ。その後はチーム事情により、抑えに転向したり、また先発に復帰したりとフル回転だった。
1998年に近鉄に移籍した頃から体調に異変が生じた。右足首の違和感や麻痺などが起こり次第に状態が悪化、8月13日に一軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。
驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板できるようになり、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。2001年は34試合に登板して近鉄の12年振りのリーグ優勝に貢献する。オールスターゲームにも中継ぎ投手部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞した。2002年、現役引退を表明した。
2005年の夏に脳腫瘍が再発するが、翌2006年2月に除去手術を受けて成功した。しかし2010年に脳腫瘍の転移した骨腫瘍が発生、2013年には脳腫瘍も再発、骨への転移と手術も繰り返すようになり、2014年の春には大腿骨を骨折していた。
2015年10月16日午前、転移性悪性腺腫のため死去。45歳没。
現役生活は14年だが、実働は4年目からと病気で戦列を離れた2年を除き、9年間で、
345試合登板、47勝34敗29セーブ。勝率.580で434奪三振、被本塁打は僅か
72本という少なさだった。 彼は記録よりも記憶に残る投手だった。
4 伊藤智仁
1993年にヤクルトに入団した彼は、僅か7年でその現役生活を終えた。150km/hを超え
るストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に三振の山を築いた。彼の角度の大きい高速スライダーはまったく打てなかった。
93年は12試合の先発登板の内、味方打線が1点以下しか取れない試合が実に7試合と打線の援護に恵まれない事が多かった(この年、ヤクルト打線はチーム打率、得点数ともリーグ1位であり、貧打線ではなかった)。だが伊藤がルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)である事は首脳陣には分かっていたため、コーチ陣は故障を危惧し登板回数・投球回を減らすよう促すが、野村はその助言を聞かずそれがシーズン中盤の故障に繋がった。この事に関し、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしている。7月中旬にひじ痛のため戦線離脱。シーズン終了まで復帰することはなかったが、実働3ヶ月ながら新人王を受賞した珍しい投手。
1996年後半に一軍に復帰。1997年は抑えの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務める。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞した。1999年から登板回数は少ないものの先発ローテーションに入り安定した投球を続け2年連続自己最多の8勝を挙げ好成績を残すが、ひじ痛・肩痛は癒えておらず同年オフに2度目の右肩の手術を受けている。
2001年にひじ痛・肩痛が再発、チームはリーグ優勝・日本一になるも本人は登板数も1試合に終わる。オフに再起を誓い、3度目となる右肩の手術を受ける。2002年の秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した。2003年10月25日、秋季コスモスリーグの対巨人戦に登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。かつて150km/hオーバーを記録したストレートは109km/hにとどまった。
10月29日、球団の引退勧告を受け現役引退を表明。僅か7年ながら、その球種の冴えやキレの良さを発揮し、存在感を示した投手となった。
全盛期に伊藤の球を受けていた捕手の古田敦也は「あの高速スライダーは捕手だからなんとか捕球出来ているが、もし自分が打者だったら絶対に打てない」と評した。
127試合に登板し、37勝27敗25セーブ。勝率は.578で、548三振を奪った。防御率は2.31と素晴らしい成績で現役を終えた。全盛期には「ガラスのエース」と呼ばれた。
5 与田剛
大学時代1勝しかあげられなかった投手が社会人で頭角を現しドラフト1位で中日入り。 150km/hを超す剛速球で短い現役生活を駆け抜けた男・与田剛。
1989年度ドラフトの会議で中日ドラゴンズから指名を受け入団。初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦で、同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでのリリーフ登板であったが2つの三振を含む無失点に抑えた。その後も抑えとして活躍し、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した。オールスターゲームにもファン投票で選出[され、新人では当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王に選出された。8月15日の広島戦では157km/hの球速を計時して当時の日本人プロ最速を記録している。
4年目以降は右肘痛のため思うような成績を残せず、ロッテ、日本ハム、阪神と渡り歩いたが、ひじ痛と腰痛が悪化し、2000年限りで現役を引退した。通算7年で148試合登板。8勝19敗59セーブに終わった。奪三振は212で、被本塁打はわずか29本だった。
その他の投手
この手のテーマで真っ先に思いつくのは、日本ハムに入団する際に、我がまま言い放題だった木田勇投手や、デビュー戦初登板の巨人戦でいきなりノーヒットノーランと言う華々しい活躍を残した中日の近藤真一投手がいる。
木田は1年目こそ22勝(8敗)を挙げて面目躍如だったが、その後は泣かず飛ばず。負け星ばかりが先行し、終わってみれば11年間の現役生活で60勝71敗、1年目を除けば38勝63敗、防御率は4.23と散々たる成績で終わった。
https://www.youtube.com/watch?v=QFsKuCWcS28
一方の近藤は、たった6年間で現役を退いた。52試合の登板で、12勝17敗、防御率は
3.90だった。
https://www.youtube.com/watch?v=p4r4Z59WOe8
記事作成:3月23日(水)