時代は移り変われど、お笑いの世界は普遍的なものらしい。これまで幾度となく漫才ブームが沸き起こったかしれない。そして次々と新しいコンビやトリオが登場して来た。それは上方漫才を主流に、吉本芸人が幅を利かせている構図に違いはない。そんな漫才が隆盛し、様々なコンビがテレビで客の笑いを誘う中で、人気絶頂だったが、その後、相方が亡くなるというショッキングな出来事に見舞われた方たちがいる。今日は、コンビ愛で長年漫才やコントを続けながら、惜しまれつつこの世を去った芸人さんを取り上げたい。
横山やすし(やすしきよし)
1966年6月1日にコンビ結成。コンビとしての初舞台は京都花月。1960年代の演芸ブームで世に出て人気者となる。その後1980年代に至るまでテレビ番組の司会などで活躍。1980年代初頭の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点に達していた。しかし1986年、きよしが国会議員(参議院)に当選。やすしは度重なる不祥事で活動機会が激減し、吉本興業の専属契約を解除されたことでコンビは解散。
横山やすしはB型を絵に描いたような性格で、歯に衣を着せぬ問題発言で物議を醸したり、自由奔放すぎる行動でトラブルメーカーでもあった。息子の木村一八も暴力行為などで逮捕されるなど不祥事だらけであった。
内海好江(内海桂子・好江)
1950年の14歳の時に内海桂子とコンビ結成。1961年には『文部省芸術祭奨励賞』を受賞し、1982年には『芸術選奨文部大臣賞』を受賞した。
長くコンビを組むうちに桂子との間に軋轢が生まれ、デビュー以来ギャラ配分が4:6だったことがきっかけで解散騒ぎに発展。事務所などが間に入り解散は免れたものの、このことがきっかけで1人で仕事をしたいと思い至り、単独での番組出演をするようになる。その後、長期間にわたってコンビ仲が悪く舞台以外は口も聞かない状態が続いた。また、好江も桂子に対して「意地を張ったり反発したことはあったが、素直に心からの礼を言ったことがあっただろうか」と考え、芸術選奨文部大臣賞の受賞パーティーで桂子に対して初めて心からの礼を述べた。
1997年10月6日、胃癌のため死去。満61歳没。
鳳啓助(唄子・啓助)
1956年に京唄子とコンビ「唄子・啓助」を結成。お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」や「ポテチン」、「あら、言いそこ間違いよ」、「君の事は忘れようにも思いだせない」などのギャグで人気を博した。後、鳳と結婚するが1965年に離婚。1994年8月8日、上顎洞癌のリンパ節転移により死去。71歳没。
春日照代(春日三球・照代)
1965年に三球と照代で『春日三球・照代』を組み直し、夫婦漫才コンビで出発した。 売れる前は三球がウクレレを、照代がギターを持ち、テーマソングの「線路は続くよどこまでも」を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には「地下鉄漫才」が大ブレークして全国区になった。「地下鉄の電車 はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの」が名台詞。
地下鉄ネタに続き、新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持した。
1987年に照代が急死した。
カンニング中島(カンニング)
中島忠幸。お笑いコンビ「カンニング」のツッコミ担当であった。お笑いのネタ中では相方の竹山隆範があまりにもキレるため、専らなだめ役となっていた。しかし、稀に竹山が暴走しすぎた時など、竹山以上の勢いでキレて竹山を黙らせていた。
急性リンパ性白血病で、35歳で死去。
今いくよ(今いくよくるよ)
1970年、OLを辞め、島田洋介・今喜多代に弟子入り。、1980年になってようやく「花王名人劇場」に出演するチャンスを得たものの、吉本興業から「これでウケなかったら最後」と通告されていた。リハーサルやネタ見せの段階では全く受けなかったが、本番になってくるよがお腹を叩いたところこれが受け、2人の漫才はカットされずに全国放送された。翌日よりテレビ、ラジオその他からの出演依頼が殺到。苦難の末、ようやく本格女流漫才師として日の目を見ることとなった。その後1984年には上方漫才大賞を受賞している。
しかし、今いくよが胃がんの治療に専念するため2014年9月17日より休業、12月3日に舞台復帰したが2015年5月28日に逝去した。67歳没。
外見のイメージから、いくよがツッコミ、くるよがボケのような印象を持たれがちだが、実際の漫才では逆でいくよがボケ、くるよがツッコミである。
1981年 上方お笑い大賞 金賞
1982年 花王名人大賞 最優秀新人賞
1982年 上方漫才大賞 奨励賞
1984年 上方漫才大賞 大賞
1984年 咲くやこの花賞 大衆芸能部門 漫才
1986年 上方お笑い大賞 大賞
1987年 花王名人大賞 名人賞
1988年 花王名人大賞 大賞
松本竜助(紳助・竜助)
1970年代後半から1980 年代前半にかけて活動した、吉本興業に所属していたお笑いコンビ。略称「紳助・竜介」( しんすけ・りゅうすけ)、「紳竜」(しんりゅう)。当時の漫才ではスタンダードとされた背広のスタイルを廃して、リーゼントヘアにつなぎ作業着という不良スタイルの「ツッパリ漫才」で、漫才ブームを牽引するコンビとなる。
松本はツッコミ、合いの手担当。元々は花月劇場の進行役。解散後は事業家へ転向したものの借金を抱え、自己破産を申し立てた。2006年4月1日に脳幹出血の為、49歳という若さで逝去。
レオナルド熊(コントレオナルド)
1979年に結成され、 1985年に解散、石倉三郎とレオナルド熊のコンビ。泥臭い毒舌キャラとおとぼけ路線で、ナンセンスなやり取りで笑いを得るという芸風は「チャーリーカンパニー」が彼らの手法を引き継いでいる。不条理コントを基本に、社会・時事問題の深層を抉る切れ味があった。締めは、(熊)「いつもニコニコ現金払い」(石倉)「違う!」。
基本的にレオナルド熊は見るからにO型で、同じビートたけしや綾小路きみまろとタイプがダブる。
1994年10月に末期の膀胱癌と診断され、ホープ、マギー司郎らの『田端グループ』によって「ガン祝いの会」を開かれた。2ヶ月後の12月11日、家族と焼肉を外食した直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で死亡が確認された。59歳没。
亀山房代(里見まさと・亀山房代)
1989年、元ザ・ぼんちの里見まさと(ツッコミ)と亀山房代(ボケ)によって結成。亀山は 元々ピン芸人であったため、まさとから漫才のいろはを教わった。
2009年11月10日、自宅で劇症型心筋炎を発症し意識不明となり、同月23日に心室細動のため神奈川県内の病院で死去した。42歳没。
両者ともに亡くなった芸人
星セント・ルイス
「田園調布に家が建つ」-などのギャグで、80年代の漫才ブーム時に一世を風靡(ふうび)した漫才コンビ。1971年結成、2003年解散。。2004年にはセントが、2005年にはルイスが相次いで他界。ともに死因は肺癌であった。 セントが他界した際、ルイスは「俺を置いて逝くなんて、大馬鹿者だよ」と発言したが、その8か月後には同じ病で亡くなることになった。
亡くなったメンバーがいるお笑いグループ
ハナ肇とクレージーキャッツ・・・昭和を代表するお笑い芸人グループ
故人・・・ハナ肇、谷啓、植木等、桜井センリ、安田伸
存命・・・犬塚弘
ザ・ドリフターズ・・・「8時だヨ!全員集合」「ドリフの大爆笑」
いかりや長介・・・「ドリフ」のリーダー。愛称は「長さん」。「ダメだこりゃ」が決め台詞。その後は俳優、タレントとして活躍。先に挙げた2番組での「お笑い」のイメージとは一線を画した、味わい深く「渋い」演技を見せた。
2003年5月末、「原発不明頚部リンパ節がん」により緊急入院。闘病生活を経て、同年7月17日に一旦退院する。2004年3月15日、がんの転移により東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院したが、同年3月20日、死去。満72歳没(享年74)。
チャンバラトリオ
時代劇風のチャンバラを主題とした、体を張ったネタを 披露した。 結成時は3人組だったためトリオを名前に使用したが、4人組だった時期や 活動を続ける生存メンバーが2人となって以降も一貫して名前は変更されていない。
2015年5月12日、リーダーの山根伸介が京都・祇園花月の舞台で会見を行い、52年続いたグループの解散を発表した。
山根伸介・・・リーダー。2015年5月12日のグループ解散発表の際に、みずからが肝臓癌を患っていたことを公表した。同年11月14日、肝臓癌のため死去。78歳没。
南方英二・・・2010年2月26日午後8時33分、肝硬変のため大阪府内の病院で死去。77歳没。
前田竹千代・・・2008年11月9日9時22分、胃癌のため入院していた大阪市内の病院で死去。55歳没。
レッツゴー三匹
ルーキー新一率いる「ルーキー爆笑劇団」の座員だった正児、じゅん、一修が、同劇団の活動停止に伴い旗揚げした。昭和後期から平成初期に活動 し、それ以降は永らく休止状態にある。
レツゴー じゅん・・・2014年5月8日午後5時29分、脳出血により大阪市内の病院で死去。68歳没。
ビジー・フォー
1978年に結成されたコミックバンド。コミックソング・ものまね・アメリカナイズされたコントなどを得意とする。メンバーは、リーダーの島田与作(異名:イタッケ島田、ベース)、グッチ裕三(ボーカル)、スリム冬樹(現モト冬樹、ギター)、ウガンダ(ウガンダ・トラ、ドラム)の四人。
当時のネタとしては、歌謡曲やらオールディーズの替え歌で「ウガンダ=デブ、モト冬樹=ハゲ、島田与作=若作り」を歌に交えて、イジって笑いを取っていた。歌(コーラス)・演奏がうまいコミックバンドとして人気を得るが、メンバーの方向性の違いなどを理由に1984年頃解散、島田は引退し、ウガンダはピン芸人となる。
ウガンダトラ・・・2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳没。永年の鯨飲馬食による肝臓病、糖尿病、心臓病、脳梗塞などの悪化が懸念されていたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発表されている。
参考記事:Wikipedia、NAVER
記事作成:6月30日(木)