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郡山の魅力再発見!⑫ ~インフラ整備~

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 近年、郡山市周辺の公共事業工事、いわゆるインフラ整備は目覚しいものがある。震災以降、多くの箇所でその整備は進んだ。より快適な暮らしを支えるこの公共事業。時に税金の無駄遣いでは?と思われる節があるが、年々住み良い環境は整っているように思う。私が20年前に住み始めた八山田周辺も、大手スーパー3店舗とホームセンターが出店し、20を超える病院が隣接している。また、大型家電量販店が2軒建ち、警察署まで出来て、ひっきりなしに自宅周辺をパトカーが往来しているため、治安がとても良い。
 そこで今回は、我が街・郡山市の、過去・現在・未来において、どのような主な公共事業が行われているか検証したい。

 <すでに完了したインフラ整備>

 1.内環状線(富田~八山田)開通

  震災の直前に開通となったが、これまでは八山田方面から市内中心部に抜けるのは、
 狭い踏切を渡り、中学校の坂を越えなければならなかった。それが、直で内環状線一本
 で乗り入れることが可能となり、車の流れが大きく変った。しかし、田村地区方面から郡
 山市に流入して来る車の交通量が増え、富久山町福原地内の旧国道との交差点付近
 の渋滞は著しい。

 2.R288三春西バイパス工事

  郡山東ICの東側から三春バイパスまでの山越え工事区間が開通し、田村市までは近
 くなった。私が三春の職場に通っていた時には間に合わなかったが、私の家から三春中
 心街までは15分とかからなくなった。早朝なら10分だ。

UchiknjyousenR288

 3.奥羽大学東側の道路整備

  喜久田街道は、磐越西線と並行し、この線路越えが長年の課題だった。今も踏み切り
 を渡らなければ、駅前方面には抜けられないが、行徳小や善方池周辺の住宅街からは
 喜久田街道に出やすくなった。おそらくは、迂回路状態になっているこの道路が高架橋
 で線路の上を越え、インター線へと接続できるようになる筈だ。

 4.中央公民館・勤労青少年ホーム

  市内麓山にある公会堂。その隣りにあった公民館が東日本大震災で大規模全壊し、
 このほど建て替えられ、完成を見た。かなり立派な公共施設だ。屋上には市内中心部を
 一望できる展望台を完備。防災設備も完備。その拠点として運用が行われる。

 5.郡山ナンバー交付開始

  インフラ整備ではないが、一応掲載したい。昨年から始まったご当地ナンバーの交付。
 「郡山ナンバー」。新車の登録や買い替えの場合は、従来の「福島ナンバー」ではなくな
 り、すべてこのナンバーとなる。すでに市街地を走っていれば、郡山ナンバーを数多く見
 かけるようになった。若い頃は福島や郡山は田舎の地方都市で、東京をこのナンバーを
 ぶら下げて走るのは嫌いだったが、この年齢になってみれば、さほど抵抗は無い。
  福島は原発事故の影響が大きく、色眼鏡で見られそうだっただけに、「郡山」という記
 載だと、すぐに福島県と結びつかない人が多い。

KouminkanKoriyamanumber

 6.その他

 西部地域子育て支援センター(大槻町)、北部地域子育て支援センター(富久山町)

 <現在工事(建設)中の整備事業>

 1.安全性評価センター

  医療機器産業を集積する目的で、134億円の国の補助金で建設・運営する。医療機器
 メーカーが商品を開発したものを安全か否かを検査し、認証を与える施設。電気検査、
 生物学検査、機械検査を集約して行う。これに伴い、雇用も増えることが期待される。

 2.旧丸井跡地

  ビジネスホテルを全国展開しているダイワロイヤル(本社・東京都千代田区)は、JR郡
 山駅西口の旧丸井郡山店(郡山市駅前1)跡地などに「ダイワロイネットホテル郡山」を
 建設する計画を発表し、4月に着工され、来年秋の開業を目指している。1~3階はショ
 ッピングモールなどの商業施設で、4階~13階までが都市型ホテル。デザインが斬新
 で、三角形の建物となる予定。郡山市は元から宿場町として栄えた土地柄。駅前周辺は
 首都圏資本のホテルが林立し、過当競争気味だ。これは公共事業ではない。

AnzenHotel

 <今後、工事が始まる予定のインフラ整備事業>

 1. インター線の延伸。これは市街地方面側。久保田変電所の手前で途切れている同
   路線を延長し、変電所の東南側に繋がる幹線道路。 

 2. 屋内水泳場の工事

   旧開成山プール跡地に建設が始まる長水路(50m)完備の屋内水泳場。すでに更
  地に整地済みで、まもなく工事が着工となる見通し。財源は震災復興費らしい。

 3.旧磐梯グランドホテル・磐光パラダイス跡地

   28,000㎡もの広大な磐梯熱海駅前の市有地に、このたび、人工芝を有したフット
  ボールセンターを始め、行政センターや公民館を兼ね備えた複合型施設の建設が予
  定されている。平成29年度の開所を目指し、今後予算化し、順次着工する見通し。

 4.JR東日本・磐越西線の新駅設置

  すでに設置箇所の用地買収が済んでいる。ここは旧農業試験場跡地の敷地内で、市
 の所有地だった場所。喜久田街道のカインズホームの東側のセブンイレブン交差点の
 南側に駅舎とホームが出来る予定。この周辺は、もともと住宅街で、大学や高校があっ
 たり、震災後は市内でもっとも大きな仮設住宅ができ、マンション建設も行われているこ
 とから、利用者はかなり多くなりそうだ。私も宴会がある際には、非常に助かる。平成27
 年度は1億66万円の予算が計上された。

BankoNew_station

 5.その他

   遊び場(旧行健二小跡地・大槻公園内・大安場史蹟公園内・カルチャーパーク内)

   郡山中央スマートICの整備

 <今後、工事が必要な不具合発生箇所>

 1.ヨークタウン(八山田)東側及び喜久田街道周辺の断続的な交通渋滞

  極楽湯の北側のバイパスへのアクセス道路は下り方面しか行けなかったが、上記の大渋滞区間解消のため、近日上りへの誘導アクセス路の工事が始まる見込み。

 2.内環状線の早期完全開通

  東部幹線もそうだが、内環状線とは名ばかりで、まったく環状していない。北側は富久
 山町地内で途切れ、芳賀周辺でも工事が滞っている。南側は安積町の長沼街道との交
 差点で終わっている。全面開通すれば、市内を通過するだけの車の流れが変り、市街
 地の渋滞解消に役立つはずだ。完成しても環状しない不思議な道路だ。

 http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=1b974dc4489905104daa8b7f46cbf716

 http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/54956.pdf#search='%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%86%85%E7%92%B0%E7%8A%B6%E7%B7%9A'

 3.市役所の駐車場の拡張

 いつ訪れても駐車場が満杯の状態で、満足な行政サービスを受けられない。利用者、つまり市民に不便を掛けているようでは、税金を有効活用しているとは言えない。

 4.国道4号線のバイパス完全立体化

 針生のオーバーパスの先、柴宮団地入口から須賀川手前の4号国道との合流地点まで信号が6か所もあり、そこだけ立体になっておらず、慢性的な渋滞の発生地点となっている。早急に立体化工事を実施し、郡山市街地を通過するだけの車両をスムーズに抜けるように整備して貰いたい。

 課 題

 郡山市は先人たちの知恵と献身的な精神により、かなり都市整備が進んで暮らし向きが良い場所だ。しかし、市街地を見渡せば慢性的に渋滞が発生している箇所も多い。道路整備は都市開発の基本なので、物流の流れがスムーズに行くように、解消するための方策をお願いしたい。また、大小合わせ、市内には数多くの公園が点在し、緑豊かな市街地というのは環境面においても子育て面、あるいは健康増進にも役立っている。しかし、やたら多すぎて土地の有効活用が出来ていない。市街地の公園には駐車場が足りないし、防災機能を兼ね備えているのは僅かしかない。税金の使い道として箱物が多いのはわかるが、スケジュールが埋まらずほとんど利用価値が無い施設も多い。では、どうすれば市民から不満がでないような税の有効活用が可能か?ならば、市主導でエネルギーの安定供給を目指すことと、米や野菜などを安全供給のための具体策を具現化してほしい。風評被害は未だ多く、「あさか舞」などのブランド米は震災前と比べ、売り上げ激減。きゅうりなどの基幹農業も頭打ち。地産地消しかないのが実情。このへんの改善策をお願いしたいのだ。

 ところで、県外から来た方に言わせれば、郡山は公園と病院、それにホテルとラーメン屋が多いと口を揃えて言う筈だ。しかし反面、郊外に人の流れが映り、駅前周辺は閑散としている。金曜日であってもアーケード内は人影少なく、呼び込みの店員のほうが多いことさえある。丸光、ダイエー、西武、丸井と大型百貨店が相次いで撤退し、大学誘致はことごとく失敗を繰り返してきた。ホテルハマツ、うすい百貨店、福島交通は一時は多額の負債を抱え、会社更生法適用で、再建の道半ばである。大都市圏の大型資本の助けを借りて、何とかやりくりしているのが現状だ。駅前のタクシープールをのぞいても、客待ち車両がまったく減らない状況。これでよく採算が合うと感心してしまう。

 インフラ整備が幾ら進んでも、市の財政状況は厳しい。税金は半端なく高い。郡山は商都として有名だが、特定の業界しか潤っていないし、年度内に予算を使い切る目的で、無理やり道路整備に無駄な税金を投入している節も見受けられる。血税であることを認識し、実りある施設をぜひ充実させて貰いたいものだ。

 記事作成:4月27日(月)

 


今週の山岸舞彩キャスター(5/4~5/7)

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 現在、追跡調査実施につき、関係各局と連携中のため、当分の間、コメントの受付を停止させていただいております。ご不便をお掛けしますが、予めご了承願います。(SUZU)

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  毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 ZERO

 5月4日(月)

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 5月5日(火)

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 5月6日(水)

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 5月7日(木)

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THE 変化球

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 今週は5日連続で「野球」ネタをお送りします。

 昭和の頃は、野球の変化球と言えば、「カーブ」、「シュート」、「フォーク」、「シンカー」くらいしかなかった。もっと昔になると落ちる系のボールはすべて「ドロップ」と言った。それがメジャーへの門戸が開かれてから、聞きなれない名前の変化球が使われるようになった。その主なものはスライダーだ。かつてカーブと呼ばれた球種は、あまり呼ばれなくなり、スライダーが主流となった。他にも最近多く耳にするのは「スプリット」とか「カットボール」という名称だ。英語かぶれのこの言い回しに戸惑う人も多いに違いない。
 では、最近の変化球事情について、その球種を紹介し、それらがどのような変化をするのか探ってみたい。

 スライダー

 人差し指と中指でボールに回転 を掛けることにより利き腕と反対方向、または下方に変化する。バックスピンとサイドスピン(利き腕と反対方向)の間の回転軸を持ち、投手の利き腕と反対方向へ滑るように曲がる物と、ジャイロ回転の成分を有して縦に落下する物の2種類がある。両者を区別するために前者を「横スライダー」(日本人選手では伊藤智仁や岩瀬仁紀が代表的)、後者を「縦スライダー」(日本人選手では松坂大輔や田中将大、大塚晶則などが代表的)、「落ちるスライダー」、または「ヴァーティカル・スライダー」 (英: Vertical Slider) 、「Vスライダー」と呼ぶことがある。投法が近いことから両方を投げる投手も多い。「カーブ」や「カットボール」など他の球種との区別が曖昧な場合があるからややこしい。

 高速スライダー・・・郭泰源や伊藤智仁、松坂大輔

 スピリット・フィンガード・ファストボール(SFF)

 フォークボールよりもスピードがあり、落差の小さな変化球です。わかりやすく言うと、握りの浅いフォークボールのことです。 フォークボールが空振りを奪うボールであるのに対し、「スプリットフィンガード・ファストボール」はあくまで打者の芯を外す変化球。ストレートと思って打ちにいくと、微妙に芯を外されます。
 スプリット・フィンガード・ファストボールの投げ方はストレートと同じ。握り方はフォークボールの握りを浅くしたもの。縫い目に指を掛けないほうが抜け易くなり、親指はボールを支える程度。リリースの瞬間は、人差し指と中指の間から抜くようなイメージ。

 カットボール

ストレートと同じ軌道で、手元で微妙にスライドする変化球です。「真っスラ」とよばれるボールに近く、文字通り真っ直ぐとスライダーの中間のような変化球です。空振りを奪うためのボールというよりも、バットの芯を少し外して打ちとるボールです。

 ツーシーム

 ストレートと同じ軌道で、打者の手元で微妙にスライド、シュートする変化球です。実際には変化球というよりも、自然と変化するストレートと言ったほうが正しい。ツーシームは鋭く変化するボールではないので、空振りを奪うために投げる球ではありません。バッターからすると、くせ球のストレートといった感じで、微妙に芯を外される。

 ナックル

 現代の魔球と呼ばれる球種。メジャー出投げる投手がいるが、日本人はあまりいない。人差し指~薬指までの3本指を折り曲げ、親指と小指でボールを支えて押し出すようにして投げる。無回転状態となるため、ゆらゆらと左右に揺れ、ブレながら打者の手元に届く。キャッチャーも捕球困難な魔球と呼ばれ、風のある日などは、球筋が定まらず、どういう変化をするかわからない。

 パームボール

 最近はあまり聞かない。真ん中お3本指を伸ばした状態のまま手のひらでボールを支え、抜くように投げる。リリースした瞬間に一瞬浮いたように見える。そこからカーブの軌道で大きく沈み込む。手が大きく指の長い外国人投手が投げるが、日本人はほとんど使い手はいない。球威は遅いが、ナックルと同じように、無回転状態となるため、ブレながら打者の手元に届く。

 チェンジアップ

 ストレートと同じ軌道で、速度が遅く、シュート回転して多少沈む変化球です。バッターからするとストレートを予測して待っていても、ボールがなかなか来ないのでタイミングを崩されます。チェンジアップの一番の目的は打者のタイミングを外すことです。
 チェンジアップは別名「OKボール」と呼ばれています。これは握った時の指の形が「OKサイン」に似ていることによります。親指と人差し指でOKサインをつくり、親指、人差指、中指でボールを押さえます。リリースする瞬間に、親指、人差指、中指を抜くような感覚で投げます。

 スクリューボール

 野球における球種の 一つで、投手の利き腕方向に曲がりながら落ちる球種。人差し指と中指を揃えてボールを握り、回転をかけて投げる。投手によっては中指と薬指でボールを弾きながら手首を外側に捻る場合や、中指と薬指の間から抜くように投げる場合もある。ボールに回転を与える動作の制約からサイドスロー・アンダースローの投手がこの変化球を使うことが多い。

 ジャイロボール

 投手が投げるボールの回転の一種。投げ方や握りがスライダーに近いことや縦に落ちる変化から縦スライダーとされるのが一般的であるが、減速が少ないことから速球とされることもある。マンガ「MAJOR」でクローズアップされ、主人公が投げるボールの回転がジャイロ回転の初速と終速が変らない伸びのあるボールを指した。

  フォークボール

 投手の投げたボールが打者の近くで落下する変化球である。代表的な投げ方は、人差し指と中指の間にボールを挟み、手首の関節を固定しリリースする。この指で挟む握り方がフォークに似ていることから名付けられた。親指をボールの下に添える投手が比較的多いが、親指を人差指の横へ添えるように握る投手もいる。この投げ方によりボールのバックスピンが直球より減少して上向きのマグヌス効果も小さくなり、ボールは重力に引っ張られ放物線に近い軌道を描く

 代表的な日本人投手・・・杉下、野茂、佐々木主浩

 <テレビアニメの魔球>

 ちかいの魔球
   止まる魔球、消える魔球、分身魔球

 黒い秘密兵器
黒い秘球、まぼろしの秘球、魔の秘球、光る秘球、0の秘球、かすみの秘球
 ミラクルA
ジェット快球、スモーク快球
 巨人の星
大リーグボール1号、2号=消える魔球、3号
 新・巨人の星
大リーグボール右1号=蜃気楼の魔球
 アストロ球団
三段ドロップ、殺人L字ボール、スカイラブ投法、七色の変化球、ファントム大魔球、ファイナル大魔球
 侍ジャイアンツ
ハイジャンプ魔球、エビ投げハイジャンプ魔球、大回転魔球、分身魔球(横)、分身魔球(縦)、ミラクルボール=ハイジャンプ+大回転+分身魔球
 野球狂の詩
ドリームボール

 近年、NPBでは投高打低傾向が強い。打撃戦となったり、10得点を上げるのは稀で、好投手による投げあいの様相を呈している。これは過去よりも多彩な球種を操るピッチャーが多くなり、打者の手元で鋭く変化することで、芯を食わなくなり、凡打で終わったり、バットが空を切るケースが多くなったためだ。大谷翔平のように、160km/h台の剛速球を投げる長身ピッチャガーがいたり、10種類近い球種を使い分け、打者に的を絞らせない好投手が次々登場しているからだ。

 記事作成:4月14日(火)

巨人歴代外国人成績(投手編)

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 私が長年ファンを続けている巨人は、どうしたことか昔から外国人助っ人に恵まれない。戦前のスタルヒンや戦後まもなく活躍した与那嶺要やは別として、本格的に助っ人を獲得しだした昭和50年以降、巨人が自ら獲得した外国人(国内他球団から獲得を除く)で誰もが賞賛すべき成績を残した選手はほとんどいない。この賞賛すべき成績とは、投手なら12勝以上、打者は打率3割、30本塁打、90打点以上だ。

 他球団の助っ人には数多く存在するこの成績を何故か達成できない。今年もキューバの怪物セペダも開幕から20試合、18打数無安打という散々な成績だ。その代役として急遽獲得したフランシスコは論外。

 では、巨人に来た歴代の外国人助っ人の戦績を比較したい。

 投手

 名 前   時期 年数 登板数  勝利 敗戦 セーブ 勝率  奪三振   防御率 採点

  ライト    1976     3        59        22     18       0       .550     142       3.97    △
クルーガー  1979     1        18         2       1       0        .667      16        4.66   ×
カムストック 1985     2        24         8      10       0       .444       94       4.47   ×
サンチェ   1986     2        76         4       4       28      .500       59       2.54   △
 パセラ   1987      1       登板機会無し                         ×
ガリクソン  1988      2       41        21      14       0       .600      231      3.29   ○

 1970~80年代の外国人投手で、唯一評価できるのは1988年のガリクソン。14勝9敗という好成績を挙げた。しかし翌年は7勝5敗で、2年後にはMLBに戻った。

名 前    時期 年数 登板数  勝利 敗戦 セーブ 勝率  奪三振   防御率 採点

ケアリー   1992    1        14        0       0        1        .000      35       3.61      ×
 ペレス      1992    1         3        0       1         0       .000        6        7.11      ×
ジョーンズ  1994    2         1        0       0         0       .000        0        0.00      ×
 趙成珉   1996    8        53      11      10       11      . 524      127      2.84      △
ガルベス  1996  5       106      46      43       0        .517      443     3.31    △
ブリトー   1996  1        39       3        2       19       .600       43       3.33      △   
ヒルマン   1997     2        2        0        1        0        .000        3        3.00     ×
パブラス     1997  1    7       0        0        4        .000        4        6.00     ×
ホセ・パラ   1999     1        12       2        3        0        .400       25       5.32     × 
デセンス   1999    1         8        0        1        0        .000       6        3.86      × 
 メイ     2000    2         50      22      15       0        .595       333     3.55      ○
鄭チョン   2000  2         12       3        2        0       .600        44      3.70      × 

 1991~2000年の10年間で、巨人の投手で及第点はダレル・メイのみ。メイは巨人の前に2年間阪神で活躍したが、阪神在籍は39試合登板で10勝16敗だった。

名 前   時期 年数 登板数  勝利 敗戦 セーブ 勝率  奪三振   防御率 採点

アルモンテ 2001    2       31          0       1         1       .000      23         2.28      ×
 ラス    2003    1       13           3      4          0      .429       42         4.14      ×
 ベイリー 2003    1       30          1       0         0       1.000     32         4.79      ×
ランデル   2003    2       27          4       3         1       .571      47          5.88     ×
サンタナ    2003    2       25           2       1         5       .667      21         4.94      ×
ペドラザ  2003   1        7           1       1         0       .500       0          12.00    × 
シコースキー  2004    2       132         12      4         5      .750      183         2.99      ○
コーリー   2004    1        21          1       1         0      .500       17          5.48     ×     
 ミセリ   2004   1         4          0        2         0      .000        3         23.62    ×
 マレン  2005    1        22          6       8         0       .429       80         6.22      ×
ミアディッチ2005   1       15          0       0         0       .000       29         7.17      ×
姜ジャン  2005    4         27         5       6         0       .455       61         3.20      ×
グローバー2006    1        20         5       7         0       .417       63         4.97      ×    
パウエル  2006    2       35         10      12        0       .455      151        3.76      ×

 2001~2010年では、巨人入団前の4年間ダイエーで抑えの守護神として117Sを挙げたペドラザが、巨人移籍後はまったく振るわず。この頃は、在籍1年の鳴かず飛ばずで終わった外人投手が大多数。即戦力で結果が求められる。そのために高額年俸を払う。結果が出なかったら、規模しいが即レイオフはプロ野球には当たり前。巨人に来る外国人は前評判とは裏腹で、期待はずれが多すぎる。だから覚えていない選手が大部分。

名 前   時期 年数 登板数  勝利 敗戦 セーブ 勝率  奪三振   防御率 採点

ゴンザレス2007    1         5          1        2         0      .333      17        6.52      ×
オビスポ 2007     4        30         8        4         0      .667      71        3.67      △
林イーハウ  2010    4         2          0        0         0      .000       2       12.60      ×
クルーン 2008     3       159        6       10       93      .375      221      2.56       ○
グライシンガー2008    4        71        31       22       0       .585      307      3.45       ○
バーンサイド 2008     2       15         5         3        0       .625      47       3.48       △
 ロメロ  2009    4        48         2         3       11      .400      46       2.72       △
  黄   2010    2         3          0         1        0       .000       6       10.57     ×      
トーレス  2011    1         6          1         2        0       .333      19       6.26      ×  
アルバラデホ2011  1        46         2         2         2      .500      44       2.45       △ 
バニスター2011   1        登板機会無し                          × 
ブライト  2011   1          3         0         0         0      .000       0        2.45       ×

 この頃はFAや自由契約による高額年俸で、日本の他球団で活躍した外国人を移籍させる手法が定着した。しかし、クルーンにしても前在籍の横浜のほうが成績は良かったし、グライシンガーもヤクルトでの成績のほうが遥かに良い。巨人に来てダメになる典型例。

名 前   時期 年数 登板数  勝利 敗戦 セーブ 勝率  奪三振   防御率 採点

マシソン  2012    3       167       10       8      40       .556     200        2.19     ○   
ホールトン 2012    2        43        21      12       0       .636     199        2.96     ○
アコスタ    2013    1     14         1       0        0      1.000     12         5.54     ×
 セドン     2014    1     10        4        5        0       .444      37        6.40     ×   
メンドーサ 2014    2    前季転入 実績なし
 ホレダ    2015    1     今季転入 実績なし
マイコラス 2015    1    今季転入 実績なし

 今日は、思いのほか投手だけでスペースオーバーになってしまい、これにて記事をいったん差し止め、明日に打者編をお送りしたいと思う。
  それにしても巨人が獲得する外国人は使い物にならない、いわゆるポンコツだらけ。48名の投手をピックアップしたが、及第点(○印)を付けたのは僅かに5人。◎印は皆無。それ以外の43人は、お世辞にも額面通りの活躍などしていない。ハッキリ言って給料泥棒だ。これには巨人なりの悪しき理由がある。高い契約金を支払って連れて来た割に、その高給に満足してしまい、ハングリー精神が欠如し、己の腕一本で勝負して、実績を上げて給料を上げようという気構えが薄い。だから年俸以上の仕事をしたいという気が薄れてしまうのだ。やはり歩合制にしないと人間、お国柄に関わらず堕落することの証明でもあるように思う。そして巨人ならではの規律の厳しさも外国人の個性を摘み取ってしまう。金髪や長髪、髭すらも許さない超絶紳士集団。ゆえに型にはまった野球になりやすい欠点がある。
 一方、外国人の実力分析に優れていて、獲得が上手い球団は西武、中日、ヤクルト、ロッテだろう。これまで優秀な選手の獲得を幾度も実践してきた。この違いは何なのか?まぁスカウトの見る目、つまり眼力不足だ。過去の実績重視ではなく、日本で通用するか否か、よく観察してから連れて来てもらいたいものだ。

 記事作成:4月20日(月)

巨人の歴代外国人成績(打者編)

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 巨人に来た「ダメ外人」を検証するこの記事。今日は打者編。投手に比べればまだマシなほうだが、それでも他球団に入団した優秀な助っ人と比べれば月とスッポン状態。マニエル、バース、レオン&リー兄弟、ブーマー、モッカ、テリー、デストラーデ、ブライアント、ローズ、カブレラ、オマリーのような秀逸した外国人は巨人に来たためしがない。三振の山を築き、チャンスではことごとく凡退を繰り広げ、よほど巨人は外国人には恵まれないと見た。V9時代には純国産選手で大記録を樹立し、助っ人の力など借りるまでもなかった。どうしてこういうダメ外人ばかり雇うのか、そして巨人に集まってしまうのか不思議でならない。
 では早速、今日は打者編をお送りし、私のテーマ設定が間違いでないことを証明したい。

 打者  

  名前   時期  年数 試合数 安打 本塁打 打点 三振   打率   採点

ジョンソン 1975       2        199     159      39      112     133      .241      △
 リンド   1977       1          65      47       9        23       48      .237      ×
 シピン  1978       3         308     302     52      158     177      .294       △         
バーフィールド 1979      1    出場機会無し                     ×
ホワイト  1980     3      362     348     54      172     188      .283       ○
トマソン  1981       2    167     119     20        55      151     .249       ×
スミス   1983       2    186   134     45      122      127     .271       △   
クルーズ  1983       1    58       31       4        17       36      .240       ×
クロマティ 1984     7    779   951     171     558      370    .321        ○ 
  呂     1988      4    113    89      18       49        57     .260        ×
ブラウン    1990      1     70       64       7        29    43      .282        △

 シピンは大洋では実績十分だった。巨人に来てトレードマークだった顎髭を落とし、威圧感が無くなった。トマソンは史上最悪の助っ人と言われ、振り回すだけで三振の山を築き、「トマソン」=「無用の長物」として流行語にまでなった。
 ウォーレン・クロマティは打撃は良かったが、肩が弱く、守備が怠慢でボーンヘッドも多く、対戦相手からは舐められた。呂は「アジアの大砲」の異名をとり、台湾から大きな期待を背負って入団した。一時期はクリーンアップを打ち、ホームランを量産したが、在籍4年間で18本塁打では及第点はあげられない。

 名前      時期  年数 試合数  安打  本塁打 打点  三振   打率    採点

ブラッドリー 1991       1   121       124      21       70       68       .282       ○
ゴンザレス  1991       2    41         31       9        27       27       .248       ×  
デラクルーズ  1991   1     5           1        0         0        2        .250       ×
モスビー   1992      2       133       134      29       84      117      .289       △ 
バーフィールド  1993      1      104       74       26       53      127      .215       △
ブラントリー1993       1    13          8        0         4         5       .182       × 
グラッデン 1994       1    98    100   15       37       64     .267        △
 コトー    1994       1    107         96      18       52       82       .251       △ 
ハウエル   1995      1     66          61      14       41       66       .279       ×
  マック       1995      2    247        273     42      127     161      .284       ○
 マント   1996      1       10           3        0         1         7       .111       ×
サントス   1997      1    39          27       0        14       15       .237       ×
カステヤーノ  1997      1    64          24       4        23       31      .197       ×
ダンカン  1998    1    63     48      10        34       58       .232      ×
マルチネス 1999      3      275        209      43       147     157       .291       △

 1990年代は今でも記憶に残る選手が多いが、成績はあまり芳しくない。ブラッドリーとマックが頑張ったと言えるほどで、高額の年俸を貰った割にはたいした成績を収められなかった。いずれも、いわゆる「黒人選手」のほうが活躍した。

 名前   時期  年数 試合数  安打  本塁打  打点 三振  打率  採点

クレスポ    2002     1   24          5          2         7      17      .122      ×
ペタジーニ  2003     2   217        218       63       165    148     .305      ○
レイサム  2003     2       60         29         7        17      59      .221      ×            
 ローズ   2004     2   235        241       72       169    272     .267      ○
キャプラー  2005     1    38         17         3         6       19      .153      × 
ディロン   2006     1   31         17         2         7       17      .195      ×
  李     2006     5   458        421       100      256    373     .275      △
アリアス   2006    1   17     10          2         5      15     .167      ×
ゴンザレス  2007    2   57          53         5        29      35      .250      ×
ホリンズ   2007    1   124         95        12       45       85      .257      ×
ラミレス   2008     4      569       666       148      430    348     . 307      ◎ 
アルフォンゾ  2009  1   21     6           2        4        10     . 146      ×
ウレーニャ   2010     1   出場機会無し                      ×

 他球団の強力助っ人だったペタジーニ(ヤクルトの本塁打王)、ローズ(近鉄の本塁打王)、李(ロッテのスラッガー)の3人を獲得したが、いずれも巨人に来る前の所属での活躍のほうが遥かに優れていた。この中には、割と最近なのに、「こんな助っ人いたっけ?」と首をかしげるような記憶にない選手もいる。

 名前   時期  年数 試合数  安打  本塁打  打点 三振  打率  採点

フィールズ 2011    1    40         22         2          9       32     .202      ×
ライアル  2011     1   33         19         0           4       31    .198      ×
エドガーG 2012     1      157       117        16         63    113    .253      △
ボウカー    2012     2   174        107       17         56     133    .235      △
ロペス   2013     2   255        221       40        112    123    .275      ○
アンダーソン  2014     2    87         94        15         50      44     .319   ○
セペダ   2014     2      52         21         6         18       38  .194      × 
フランシスコ2015 今季途中入団

 今年在籍のアンダーソンは故障で出遅れ。キューバの怪物として鳴り物入りで巨人に入団した筈のセペダはからっきしダメ。今季も開幕から20試合目で無安打。

 さて、今日は巨人の歴代助っ人の中で、打者編をお送りしたが、私が合格点を付けたのは46人中たったの7人。後は役立たず。話にならない散々な結果だった。

 打撃で助っ人に求められるのはズバリ長打力と破壊力。一発で流れを変えるホームランだったり、打点が多くなければ意味がない。ミートが上手いアベレージヒッターではない。パワー野球こそがベースボールの原点であると感じさせるような凄まじい存在感だ。

 ところが見て来たように、巨人にやって来た外国人はどれも使えない。唯一、ラミレスだけは◎印だったが、彼だって、ヤクルトで実績を積んだ結果、移籍で巨人に入団してきた。まるっきりの生え抜き選手ではない。やはり、巨人は昔から外国人には恵まれず、国産打線でやりくりして来たのが手に取るようにわかる。
 もう巨人は外国勢に頼らずに、日本人選手だけでオーダーを固めたらどうだ?そして選手の育成を上手くやれば、きっと最強チームが出来上がると思う。巨人関係者が見ていたら、ぜひ参考にしてほしい。

<参考資料>

 http://www.my-favorite-giants.net/giants_data/player/foreign-year.htm

  私が6年前の2009年に書いた「最強助っ人列伝」はコチラ↓

 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-57b8.html

 記事作成:4月20日(月)

 追記(5月6日(水))

 私が予想したように、鳴かず飛ばずのセペダの代役として急遽巨人が獲得したフランシスコは使い物にならないダメ外人の典型。太り過ぎの巨漢体型も問題外だが、バッティングは芯に当たらないし、守備もまるでダメ。私が見るに、日本の細かい野球や多彩な日本の投手の変化球に対応できる器用さは微塵も感じられない。セペダがダメだからと言って慌てて獲得したが、私ならすぐにお払い箱にしたい。逆にロペスを放出したのは痛すぎる。DeNAでは水を得た魚の如き、DeNAの春の珍事とも呼ぶべき単独首位に一役買っている。巨人のスカウトマンの見る目は全く節穴だし、役目を全く果たしていない。実に情けない。ぜひ私をアドバイザーとして雇ってほしいものだ。

名選手は名監督に非ず

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 戦前から歴史がある日本プロ野球の歴史。その中で名選手の証として「名球会」という組織がある。投手ならば200勝以上、打者ならば2,000本安打以上が入会資格となっている。これをクリアすることで一流選手としての称号が与えられる。近年は、とりわけ投手の分野で、完全分業制が実施され、これに250セーブが加えられた。この資格を満たしている選手は、平成26年末時点で200勝以上の投手が24名、2,000本安打以上が44名、そして追加された250セーブで1名。NPB合計で69名。これに日本人メジャーリーガーを含めた日米通算記録となると、野茂英雄、イチロー、松井秀喜、佐々木主浩、そして高津臣吾がいるため、総人数で有資格者は74名ということになる。実際は入会を辞退した方や、中途で脱会した方もいるため、名球会在籍者はもっと少ない。

 では、これら名選手が、皆、引退後に球界発展のために球界に残り、指導者の道を歩んでいるかといえば決してそうではない。今も現役の岩瀬とイチロー、小笠原、山本昌、中村紀洋を除く引退者68名をテーマに沿って検証してみたい。なお谷繁は監督兼任のため、ここに含み、分母に加えた。

順位投手勝利  監督での戦績(勝数ー敗数・リーグ優勝・日本一)
1金田 正一400(1950-1969)  1011試合 471‐468      1回  1回
2米田 哲也350(1956-1977)
3小山 正明320(1953-1973)
4鈴木 啓示317(1966-1985)  390試合  183-196
5別所 毅彦310(1942-1960)    342試合  143-190
6スタルヒン303(1936-1955)
7山田 久志284(1969-1988)    260試合  128-127
8稲尾 和久276(1956-1969)   1040試合 431-545
9梶本 隆夫254(1954-1973)    260試合  133-111
10東尾 修251(1969-1988)  937試合 489-425     2回  0回
11若林 忠志237(1936-1953)  740試合 390-324     2回  0回
11野口 二郎237(1939-1952)
13工藤 公康224(1982-2010)   H27監督に就任
14村山 実222(1959-1972)  528試合 241-271
15皆川 睦雄221(1954-1971)
16*山本昌219(1986-2014)
17杉下 茂215(1949-1961)    405試合 182-215
17村田 兆治215(1968-1990)
19北別府 学213(1976-1994)
20中尾 碩志209(1939-1957)
21江夏 豊206(1967-1984)
22堀内 恒夫203(1966-1983)    284試合 133-144
23平松 政次201(1967-1984)

  24 藤本 英雄200(1942-1955)  140試合 83-53

 

順位

選手安打           監督での戦績(勝数ー敗数・リーグ優勝・日本一)
1張本 勲3085(1959-1981)
2野村 克也2901(1954-1980) 3204試合 1565-1563   5回  3回 
3王 貞治2786(1959-1980) 2507試合 1315-1118   4回  2回
4門田 博光2566(1970-1992)
5衣笠 祥雄2543(1965-1987)
5福本 豊2543(1969-1988)
7金本 知憲2539(1992-2012)
8立浪 和義2480(1988-2009)
9長嶋 茂雄2471(1958-1974) 1982試合 1034-889    5回  2回
10土井 正博2452(1962-1981)
11石井 琢朗2432(1989-2012)
12落合 博満2371(1979-1998) 1150試合 629-491     4回  1回
13川上 哲治2351(1938-1958)  1866試合 1066-739  11回 11回
14山本 浩二2339(1969-1986) 1359試合 649-681     1回  0回
15榎本 喜八2314(1955-1972)
16高木 守道2274(1960-1980)   940試合  445-465 
17山内 一弘2271(1952-1970)   712試合  336-313
18大杉 勝男2228(1965-1983)
19大島 康徳2204(1971-1994)  413試合   181-225   
20若松 勉2173(1971-1989)   975試合  496-461    1回  1回
21稲葉 篤紀2167(1995-2014)
22広瀬 叔功2157(1956-1977)   390試合 136-227
22秋山 幸二2157(1981-2002)   865試合 456-369     3回  2回
24宮本 慎也2133(1995-2013)
25清原 和博2122(1986-2008)
26前田 智徳2119(1990-2013)
27*小笠原 道大2107(1997-2015)
28中村 紀洋2101(1992-2014)
29古田 敦也2097(1990-2007)   290試合 130-157 
30松原 誠2095(1962-1981)
30*谷繁 元信2095(1989-2015)   144試合  67-73 
32山崎 裕之2081(1965-1984)
33藤田 平2064(1966-1984)   170試合 65-105
34谷沢 健一2062(1970-1986)
35江藤 慎一2057(1959-1976)   130試合 58-62
35有藤 道世2057(1969-1986)   390試合 153-213
37加藤 英司2055(1969-1987)
38小久保 裕紀2041(1994-2012)  日本代表監督
39新井 宏昌2038(1975-1992)
40野村 謙二郎2020(1989-2005) 718試合 321-370 
41柴田 勲2018(1962-1981)
42ラミレス2017(2001-2013)
43田中 幸雄2012(1986-2007)
44駒田 徳広2006(1983-2000)

 現役を除く名球会在籍で、監督経験者は、投手が13名、打者が18名、合計31名いる。しかし、リーグ優勝を飾った監督は11名しかいない。名選手が名監督かと言えばそうとも言い切れない。中には監督にすら招聘されない名選手も多い。張本、福本、門田、衣笠などがそうだ。監督向きではないという球団側の判断だと思うが、やはり人間、向き不向きがあるようだ。

  最後に、一時期華々しい活躍をし、私たちの記憶に刻まれている名選手なのに、意外にも名球会に入っていない選手を列挙し、結びとしたい。

 投手

 桑田真澄、大野豊、江川卓、尾花高夫、山本和行、齋藤雅樹、高橋直樹

 打者(野手)

 篠塚利夫、原辰徳、高木豊、高橋慶彦、島田誠、柏原純一、田淵幸一、掛布雅之、

 高橋由伸、弘田澄男、真弓明信、岡田彰布、木俣達彦、福嶋久晃、田代富雄、宇野勝、

 杉浦享、松永浩美、山崎武司、石毛宏典、大石大二郎

 記事作成:4月5日(日)

いぶし銀のプロ野球選手

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 クリーンアップなどの主軸は打たないものの、いい味を出し、チームには欠かせない役割を果たす特別な存在の選手がいる。人はそれを「いぶし銀」と呼ぶ。ホームラン数は少ないものの、熟達した職人技を大事な局面で発揮して、チームを救ったり、窮地に追い詰められた場面で起死回生の一打を放つ選手だったりする。これらは経験豊かなベテランに多い。
 本日は長いプロ野球の歴史の中で、そうした「いぶし銀」の活躍をした名選手を取り上げたい。

 平野光泰(近鉄)

 悲運の名将・西本近鉄の一番打者。長打力もある中堅手として名を馳せた。実働14年で1,055安打。107本塁打。106盗塁。打率.264.私が大好きだった選手のひとり。

 広島に2年連続日本シリーズで敗れたが、昭和55年の頃のミラクル近鉄が大好きだった。栗橋や石渡などもいぶし銀のような選手だった。

 弘田澄男(ロッテ)

 小柄でながらしぶとい打撃を見せる。犠打もうまい。アルトマンと並んで「ロッテの外野はノッポとチビ」と言われた選手だ。 パ・リーグ時代一度しか記録していない3割を移籍直後の84年に達成。2番センターとして活躍。実働16年。1,506安打。294盗塁。打率.276

HiranoHirota

 正田耕三(広島)

 高橋慶彦と不動の1・2番俊足巧打のコンビだった。スイッチヒッターで、ファウルで粘り、四球を選び、盗塁も多く、相手投手からは一番嫌なタイプだった。二塁手として守備も堅実で、俊足を活かして守備範囲が広かった。実働14年で1,546安打146盗塁。打率は.287だった。528三振とミートが上手い分三振が少ないことで有名だった。

 辻 発彦(西武)

  私の中では守備の名手という印象。清原、秋山、石毛、工藤、郭、渡辺久信などと森・西武の黄金期にあって、鉄壁の二塁手として職人技を披露した。歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。小柄に見えるが182cmもある。

SyodaTsuji

 篠塚和典(利夫)(巨人)

 安打製造機の異名をとるほどの小技の利くバットコントロールは有名だった。しかし、高卒で長く現役生活を送り、首位打者も獲得している彼だが、名球会に入っていない。腰痛に泣いたという印象。彼が素晴らしいのは、バッティングだけではなく、その卓越した守備技術にもある。とりわけ1980年代の巨人を支え、河埜和正との二遊間コンビは鉄壁だった。抜けそうで抜けない、まるで牛若丸をイメージさせるような軽やかな守備で、何度もピンチを救い、味方投手にとって、これほどありがたい存在はなかった筈だ。

 実働18年。1,696安打。打率.304 三振が540と極端に少ない。1シーズン30個程度だった。いかに選球眼が良く、ミートが上手かったかが窺える。

 高木 豊(横浜-日本ハム)

 横浜の全盛期の屋台骨を支えた一人。加藤博一、屋敷要らとスーパーカートリオを結成。俊足好打の1番・3番打者として活躍した。1990年は打率.323でリーグ2位。1992年、巨人戦において通算300盗塁を達成。

 実働14年 1,716安打。877得点。316二塁打。321盗塁。747四球。打率.297

ShinozukaTakagi

 新井宏昌(近鉄)

 彼こそ熟練という言葉がぴったりな名プレーヤー。ミートが上手く、野手のいない場所を狙う単打の天才。現役時代は南海ホークスや近鉄バファローズで活躍。巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、2000本安打に加え300犠打をマークするなどチームプレーにおいて欠かせない存在感を示した。18年で2,038安打。通算で422三振しかしていない。年間平均25三振なのでいかにミートが上手かったか。盗塁165で三拍子揃った名選手。

 小川 亨(近鉄)

  1967年のドラフト3位で近鉄バファローズに入団。膝を深く、体をくの字に曲げ、バットを極端に短く持ってピッチャーに傾ける独特の構えで、勝負強い打撃を発揮。1年目の1968年から一軍に定着し、95試合で打率.256を記録。翌1969年は11本塁打と長打も増え、同年から5年連続二桁本塁打。特に1971年は自己最多の20本塁打に打率も.315と大台を突破し、レギュラーの地位を固めた。また、入団1年目から7年連続で二桁盗塁。1970年、1972年とリーグ最多三塁打を記録。
  1975年は打率は3割を切ったものの、最高出塁率のタイトルを獲得したほか、7月10日の対南海戦から9月6日の対太平洋戦まで歴代3位の180打席連続無三振記録を樹立した。1980年には自己最高となる.323を記録してリーグ6位につけた。
近鉄一筋17年のプロ生活で、通算1908試合出場は球団最多記録。1984年に現役を引退。

AraiOgawa

 進藤達哉(横浜)

 個人的には最強の2番打者だと思っている。1997年から1999年まで3連続で三塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得。小技が利く選手は守備も抜群に上手い。当時12球団でも随一の守備力と呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守でチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打撃でもいずれも生涯自己最高となる打率.241、14本塁打、54打点を記録し、リーグ優勝決定試合でも勝利打点を叩き出すなど、マシンガン打線の一員として活躍した。実働16年。917安打。104本塁打。100犠打。

 川相昌弘(巨人ー中日)

職人という言葉は彼の為にあるようなものだ。小柄でも、何か一つに長けていれば、記録を残せることを身をもって証明した選手だ。川相=バントの名手と誰もが思うだろう。その積み重ねが実を結んだ。2003年8月20日に東京ドームで通算512犠打を達成し、エディ・コリンズのMLB記録を超え、ギネス世界記録にも認定された世界記録を樹立し、その名を刻みこんだ。現役23年。1,199安打。533犠打。打率.266

ShindoKawai

 仁志敏久(巨人ー横浜)

 彼は向こう気が強く、切込み隊長として脅威の存在だった。職人技と言えるような安定した守備力に加え、171cmと小柄ながらパンチ力があった。先頭打者ホームランで相手投手の立ち上がりの出鼻を挫くような役割を何度も果たした。私は崇拝していた原監督と性格的に合わなくて、自ら巨人を去った印象が強い。
 実働14年。1,591安打。154本塁打。2,348塁打。135盗塁。打率.268

 宮本慎也(ヤクルト)

 ヤクルト一筋の職人。元日本プロ野球選手会会長。アテネオリンピック野球日本代表(2004年)・北京オリンピック野球日本代表(2008年)ではキャプテンを務めた。また、2009年から現役最終年の2013年までは、一軍のコーチも兼務した。
 規定打席に到達したシーズンで4回の打率3割を記録している。若手の頃は2番や8番といった打順を打っていたが、30代後半のベテランになってからクリーンナップを任されるようになった。右打ちやファウルを打ってカットするのが得意であるが、初球から積極的にスイングするため四球が少なく、出塁率はさほど高くない。2002年は519打席に立ちながら、わずか9四球という少なさだった。2001年には世界タイ記録の67犠打を記録するなど、球界最高峰のバントの名手となった。また、名球会入りしている打者で通算2000本安打・400犠打を記録している唯一の選手でもある。
 実働19年。2,133安打。111盗塁。408犠打。打率.282

NishiMiyamoto

 他にも西武などで活躍した平野謙選手や巨人の篠塚なども

 <現役選手>(2015年4月時点)

 谷 佳知(オリックス)

 俊足巧打の秀逸した選手。小柄ながら長打力もある。早いカウントから打ちにいく積極性が持ち味だが追い込まれた後でもミートできるバットコントロールを持ち味とし、三振が少ない。2003年には2ストライク後打率.351を記録し、カウントによっては狙い打ってスタンドまで運ぶ長打力も兼ね備え、得点機にも強く巨人移籍後2010年までの通算得点圏打率.332を誇る。巧みなバットコントロールで球種に関わらず打球を広角に打ち分ける技術を持ち、特に右方向へ流し打つ技術は球界屈指と言われる。
 外野守備では俊足を生かした広い守備範囲と強肩を誇り、2001年から2004年にかけて4年連続でゴールデングラブ賞を獲得する活躍を見せた。2002年には41盗塁を記録して盗塁王を獲得するなど活躍。
 実働18年。1,923安打 133本塁打 167盗塁 2,718塁打。打率.297

 藤田一也(横浜ー楽天)

 彼もまた派手さはないがいい味を出している。守備の達人で、打ってつけの2番打者。二塁手・遊撃手・三塁手と複数ポジションをこなす。もっとも多く出場した二塁手での守備率は通算.993。2011年にはシーズンを通して無失策を記録するなど安定した成績を残している。二塁手での守備率は通算.993。2011年にはシーズンを通して無失策を記録するなど安定した成績を残している。ボール球スイング率が高く選球眼に課題を残すが、空振りは少なく三振も少ない。32歳。11年目。632安打。152犠打。766塁打。打率.272

 井端弘和(中日ー巨人)

 WBCアジア予選の台湾戦で、崖っぷちに追い詰められた時に、同点打を放ったあのバッティングは、ベテランの味。プレッシャーに強いB型そのもの。中日時代は「アライバ」として鉄壁の二遊間コンビを結成。数々のファインプレーを演出した。

 2004年から2009年まで6年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。走塁面でも20盗塁以上を三度記録し、右打者ながら一塁到達3.98秒を記録するスピードを誇る。柔らかいリストワークを生かしたバットコントロールの良さを持ち味とする。大きく左足を上げるバッティングフォームだが、タイミングやステップを微調整するため対応力が高い。
 2006年から2010年までの5年間で左投手に対して打率.307を残し、基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年も打率.285を記録するなど左投手を得意としている。空振りは少なく、外角の球に限らず内角の厳しいコースも腕をたたんで右方向へ運ぶ技術を備え、得点圏時には右方向に8割以上の割合で打球を運ぶなど場面に応じたバッティングもできる他、ファウル打ちは球界屈指の技術を誇る。
 現役生活16年。1,849安打。261二塁打。2,321塁打。146盗塁。238犠打。665四球。打率.283

 今日取り上げた選手は、相手チームからしたらもっとも嫌な存在。主砲や足の速い選手は警戒するが、ノーマークの存在だけに、意外性や勝負強さがあって、ここ一番で思いも寄らぬ力を発揮して結果を出す。これは勝負を決める一打となるケースが多い。新人の若手選手はこういう先輩の功績を見習い、自分スタイルを極めてほしい。周囲に流されず、自分にしか出来ない生きる道を模索し、それを体得できれば、息の長いファンから愛される名選手になれると思う。

 記事作成:4月18日(土)

 追記(5月14日 木)

 巨人首脳はやはり人を見る目が無い。坂本が戦線を離脱し、成績も良くなり2位に浮上。しかし坂本を復帰させ、いきなり4番に据えた。結果は4タコ。つまり、4打数無安打。彼が出ると、打線が湿る。ポンポン打ち上げて意気消沈。打線の流れが悪くなり、他の打者に伝染する。彼がスタメン出場した試合は、打線は沈黙で、チーム全体で5本しかヒットが出ない。私が監督なら彼は一軍にすら置かない。打てない守れないではいいところが無い。それをなぜ原監督はあろうことか彼を4番に抜擢するかわからない。それに長野もファーム送りだ。たいした才もないくせに、努力もしないでカッコばかりで野球をやろうとする輩は害であって雇う必要が無い。

 1 片岡          代打 村田  代走 鈴木
 2 井端              中井
 3 アンダーソン         小林
 4 堂上              寺内
 5 太田              矢野
 6 阿部
 7 亀井
 8 橋本到

 

 ~お知らせ~

 明日5月16日は10年前に亡くなった私の最愛の祖父の命日にあたります。したがって、亡くなった時刻に、毎年お送りしている追悼の詩を掲載させていただきたいと思います。ご了承願います。(SUZU)

人生の落日 ~花散る日~

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 この日(5月16日)は私にとって尊敬してやまなかった亡き祖父の命日という特別な日にあたるため、今回で6度目になるが、この詩を再掲載し、亡き祖父に捧げたい。

 人生の落日 ~花散る日~

また僕は人生で大切な人を失った 
親父が死んで ずっと父親代わりだった心の支え
あなたは僕にとって大きな存在 
幼少の頃は未熟児だった僕に剣の道を説いた
尊敬する人は誰かと聞かれれば 
僕は迷わず祖父の名前を挙げるだろう・・・

明治生まれの生粋の会津人 
「ならぬものはならぬ」の精神が体の髄まで宿り
威厳と風格に満ち溢れ怖い存在 
でも孫には優しく自分にとって良きおじいちゃん
あなたは僕の人生そのもの 
身を持ってその手本を示してくれた

忙しく日本中を駆け巡る姿 議員 市の役員 
そして自らが創設した踊りの協会
幾つもの役職をこなし 
すべて一銭にもならない慈善活動 
社会貢献に身を投じ一生を捧げた 
そんなあなたの実直で懸命な生き方に周囲は
黙ってついて行った 
苦労の甲斐あって功績が世に認められ 数々の褒章と受勲
それでもあなたは驕ることも偉ぶる素振りも見せなかった
その人柄を慕って多くの人が寄ってきた 
あなたの演説は「金べろ」と称され 
あなたが話せば爆笑の渦と拍手喝采の嵐

そんなあなたでも僕が困った時は必ず
救いの手を差しのべてくれた
いつもあなたは眩しい存在 強くて大きくて 
そして近くて遠い存在 僕の誇りだった

しかし人生七十五年の節目に大きな転機が訪れた 
長年連れ添った妻との死別
それでもあなたは悲しい顔ひとつ見せず気丈に振る舞い 
元気を装っていた

その後あなたは寂しさを振り払おうと
孫娘を連れだって講演や踊りに没頭した
やがては一人身の暮らしにも慣れていった 
でも寂しくない筈はなかった

その自慢の健脚も八十歳を過ぎて翳りが見え 
あなたは健康を患い入院をした
年を重ね 徐々に体の自由が効かなくなり 
気弱な面を見せるようになると
不思議にあなたは穏やかになり 
とても身近な存在に思えてきた

そして平成十五年 あなたが卒寿を迎えたばかりの冬 
長男の突然の死 愛する妻と息子に先立たれ 
どんなにあなたは辛かったことだろう
戦友 親友 仲間を毎年少しずつ見送り 
次は自分の番がいつ来るのかと
背中合わせの死の恐怖に怯え 闘うことを強いられた 
そして周囲の誰も気づかぬうちに 
少しずつ病魔が忍び寄っていた
 


その後 あなたはすっかり元気を失くし 
表舞台から身を引き 寝たきりとなった
「命ある者はいつかは必ず朽ちる 
命の期限は人によって違うが 太く短く生きるか
細く長く生きるかの何れかだろう 
長く生きることは悲しみをすべて受け入れること」

やがてあなたの体に病変が見つかり 
少しずつ蝕んでいき 入退院を繰り返した
剣道で鍛えた強靭な精神と体も 
寄る年波の前でたじろいで見えた
「年内持てば良い」と医師から宣告され
十六年の暮れ 誰もが覚悟した最後の入院
初めてあなたは病院で正月を迎えた 
見舞い客の前では決して弱気を見せず 
何度も「大丈夫だ」を繰り返し強がって見せた 
それが自分への勇気づけ 

その後 あなたは不屈の精神で命の炎を燃やし続け 
何度も危機を乗り越えた
春 「桜を見たい」という最後の願いを己の気力で叶えた
誰もが奇跡を信じた 一時退院が認められ 
車内から通りすがりに見る卯月の空に映える満開の桜
あなたがこよなく愛し 
何度も足を運んだ公園のソメイヨシノの桜並木 
桜吹雪が車道を埋め 
その中をあなたを乗せた車がゆっくりと潜り抜けた 

「嗚呼 綺麗だな・・」
あなたはポツリ独り言のように呟き 
静かに瞳を閉じ いつまでも余韻に浸っていた

そしてその数日後 花びらが散るようにあなたの命も散った

朝 仕事先にかかった兄からの一本の電話 
「危篤 すぐ来い・・・」
とるものもとりあえず 病院へ向かう車の中 
涙で滲んで前が見えない

前日あなたは珍しく気弱で 初めて僕に我儘を言った 
「このまま死んでしまうんじゃないか」「眠るのが怖い」 
付き纏う不安
あなたが眠りに着くまで僕は傍に寄り添い 
励ましながら痛がる背中を擦ってあげた
これが僕にできる最後の孝行となった

「待っていて もうすぐ行くよ」
焦る気持ちと裏腹に無情に変わる信号 一秒が惜しい
仕事帰りに通い慣れた病院への道 
来るべきものが来たことを悟った
階段を駆け上がるといつもと違う病室 
扉を開けると一縷の望みを賭け
懸命の救命処置が続いていた 
しかしその甲斐なく再び息を吹き返すことはなかった

別れの時刻が主治医から告げられ 
張りつめていた力が一瞬で抜け床に崩れ落ちる
「おじいちゃん よく頑張ったね お疲れ様」
その言葉しか見つからなかった

ベッドの上であなたは これまでの苦しみから解き放たれ
安らかで それでいて 満足そうな死に顔を湛え 
「悔いのない人生だった」と周囲に伝えているようで
それは立派な大往生だった・・・

愛妻と死に別れてから十八年後 
ようやくあの世で再会を果たした

今 同じ位牌に二つの戒名 
それだけが残された僕たちにできるせめてもの恩返し

ほどなくして昔世話になったという見覚えのある人たちが
最期の別れに集まる
皆が「会長」と過ごした時間の思い出話に花を咲かせ
故人を偲んで語り合う 

晩年あなたが過ごした一軒家にて 
遺品の整理で出てきた想い出の品々
従軍時代の貴重な日記 
そして人生を物語る数々の色褪せた白黒写真
戦争で一度は死を覚悟し 家族に宛てた手紙 
そして所々に添えられた見事な挿絵
隠居後は孤独に耐えて 本当の死の恐怖と闘い続けた 
そんな祖父の生涯だった

耳を澄ませば 今も聞こえる電話の向こうの
凛としたあなたの声
背筋をしゃんと伸ばし 茶の間で寛ぐあなたの面影が 
この胸に去来する

「ありがとう 僕の大切な人 でもさよならは言わない」

だってあなたはいつでも僕の人生そのものだから・・・・


 平成十七年五月十六日 祖父他界 享年九十二歳 合掌



Cherry_trees

 あれから丸10年。あの日は月曜日だった。祖父との思い出はいつも「大徳」にある。祖父の生き様を手本とし、自分があの世へ導かれた時に、恥じない生き方をして、胸を張って報告をしたいと考えている。

http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/jinseinorakujitu.htm


今週の山岸舞彩キャスター(5/11~5/14)

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  毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 ZERO

 5月11日(月)

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 5月12日(火)

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 5月13日(水)

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 5月14日(木)

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巨人軍エピソード

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 私はもの心ついた頃から巨人ファンだ。それはO.Nの活躍もあって、V9時代の強い巨人が野球界を牛耳っていた全盛の頃、小学生時代を過ごしたこともあって、野球少年だった私にとっては憧れの的だった。しかし、長年G党を続けていると、不思議なことが多くあることに気づく。今日は巨人に関する疑問をエピソードとして取り上げてみたい。

 1 巨人軍の名前の由来

 唐突だが、私が子供の頃の12球団は以下の通りだった。

 セ・リーグ・・・巨人、阪神、中日、ヤクルト、大洋ホエールズ、広島
 パ・リーグ・・・阪急ブレーブス、南海ホークス、ロッテオリオンズ、日拓ホームフライヤー
         ズ、 太平洋クラブ(クラウンライター)ライオンズ、近鉄バファローズ

 特に人気が無く、経営が危うかったパ・リーグで身売りや合併など入れ替わりが激しかった。そんな日本のプロ野球にあって、12球団の中でもっとも古い歴史を誇り、かつ人気球団として球界の盟主として長年君臨しているのが「東京読売巨人軍」。つまりジャイアンツ。しかしなぜか軍隊ではあるまいし、唯一軍隊のような名称を使用しているのには理由があるのか? 

 「読売巨人軍」という名称は、野球規約上の正式な球団呼称である「読売ジャイアンツ」を日本語に意訳したものです。「ジャイアンツ」は球団のニックネームです。もともと読売新聞社が昭和10年に日本初のプロ野球チームを立ち上げたときの球団名は、「大日本東京野球倶楽部」(野球クラブ)という大変長い名前だったのですが、球団結成直後に行なわれたアメリカ遠征中、現地で同球団の世話役を務めていたフランク・オドール氏(大リーグのニューヨーク・ジャイアンツに所属していた元左腕投手)が、「“大日本東京野球倶楽部”という名前はなんとかならないか。宣伝ポスターを作るにも名前が長すぎて字が入らないくらいだ。私が昔ニューヨーク・ジャイアンツにいたから、とりあえずチームのニックネームは“トーキョウ・ジャイアンツ”にしたらどうだろう」と球団側に提案し、球団の親会社である読売新聞社もこの提案内容について、「渡米中に行う対外試合だけは、とりあえず“東京ジャイアンツ”でやってよろしい」とこれを承諾したため、ここに初めて「ジャイアン
ツ=巨人軍」というニックネームが誕生することになりました。(Yahoo!知恵袋より)

 2 巨人は昔から左投手に弱い

 「巨人キラー」という言葉がある。巨人戦になると野球中継があって、しかも超満員のスタンドで、いつも以上に燃える選手が多くなる。巨人は人気球団だけに何かと注目される存在だけに、相手の選手のモチベーションがいつもより断然高くなる。逆に言うと、巨人は他球団よりもマークが厳しく、エース級の投手をぶつけることが多々ある。
 とりわけ不思議なのは、巨人は昔から左投手にめっぽう弱いという統計がある。これは事実で、左投手に好投手が多いというのもあるが、巨人キラーには左投手が断然多い。

 セ・リーグの左投手と言えば、古くは金田(国鉄)、江夏(阪神・広島)から始まり、山本和行(阪神)、下柳(阪神)、大野(広島)、川口(広島)、安田(ヤクルト)、山本昌(中日)、 野口(中日)、今中慎司(中日)、岩瀬(中日)、土肥義弘(横浜)、野村(横浜)、藤井(ヤクルト)、石井一久(ヤクルト)、石川(ヤクルト)だが、いずれも巨人が苦手としていた投手たちだった。ではどれくらい苦手だったか、そしてそれぞれのサウスポーがどれほど「巨人キラー」だったか探ってみたい。通算成績と対巨人戦の成績を見れば一目瞭然。

                  
 1 金田正一   国鉄時代通算353勝267敗、対巨人65勝72敗
 2 江夏 豊    対巨人通算31勝34敗
 3 山本和行   阪神の抑えの切り札100勝と100セーブを巨人戦で達成した。
 4 下柳      阪神での通算80勝54敗中、対巨人16勝7敗
 5 大野      巨人戦通算成績は22勝33敗27セーブ
 6 川口和久   広島での通算131勝122敗、対巨人33勝31敗
 7 安田猛     対巨人戦通算成績は16勝20敗
 8 山本昌     通算210勝160敗、対巨人41勝44敗
 9 野口      対巨人成績も中日での通算80勝78敗中、14勝15敗
10 今中      通算91勝69敗、  対巨人通算25勝20敗
11 岩瀬             今年も現役だが407セーブの日本記録を更新中
12 土肥 横浜での通算25勝35敗中、対巨人13勝4敗
13 野村弘樹   通算101勝88敗、対巨人25勝17敗
14 藤井秀悟   対巨人通算13勝15敗
15 石井一     対巨人通算21勝23敗
16 石川雅規   対巨人通算13勝16敗
17 井川慶     対巨人通算19勝13敗
18 松本幸行   中日での通算98勝89敗、対巨人17勝18敗

 「巨人キラー」とか左投手に弱いと言っても、大きく負け越しているのは僅か。実際は巨人戦に負け越している投手が多い。あの江夏ですらそうだ。勝ち越しているのは下柳、川口、今中、土肥、野村、井川くらいなもので、そんなに大負けしている訳ではない。私が思うに、テレビ中継で負けたときの印象が色濃く残ってしまうから、完封されることも多く、それがまったく打てずに苦手意識として記憶に取り込まれてしまうのではいか。

 右投手でも平松(51勝47敗)、板東英二(対巨人通算17勝9敗)、星野仙一(35勝31敗)、川上憲伸(対巨人戦24勝18敗)、川崎憲次郎(対巨人29勝24敗)、齋藤隆(対巨人19勝17敗)、池谷公二郎(対巨人通算24勝20敗)、広島の変則フォームの山内泰幸は巨人戦10連勝を含む13勝4敗)と巨人をお得意としていたキラーが数多くいた。今年8年ぶりに古巣に復帰した黒田博樹は広島での通算103勝89敗のうち、対巨人20勝17敗だった。

 現役では、能見にも苦手意識が強い。能見の巨人戦通算成績は49試合登板、17勝10敗、防御率2・73。これは前述したように、他球団が巨人の独走を阻むべく、包囲網を形成し、主力選手を巨人戦にぶつけて出鼻を挫こうという魂胆が見える。だから左投手に好投手が多いため、必然的に攻略が難しくなるという図式だ。   

 3 巨人を追われた選手の復讐心

 巨人は人気抜群だったために、テレビ放送が毎試合あって、何かと注目される球団だった。その反面、他球団の選手やファンからは目の敵にされる存在でもあった。巨人に入団を熱望していても、ドラフトというクジに自らの運命を託さなければならない不思議な世界。残念ながら巨人ファンであった選手やトレードなどで巨人を追いやられた選手は、人一倍巨人戦になると燃えたものだ。

 谷沢、田淵、平松、星野、清原などはその典型だ。

 4 巨人は初物に弱い?

 中日の近藤真市投手の1987年初登板は巨人戦だったが、いきなり初顔合わせでノーヒットノーランを食った。また、長身の外国人投手にもめっぽう弱いというデータがある。でも初物に強いチームもあまりない。その投手の球種や持ち味、配球、決め球、クセなどは初対決だとなかなかつかめない。だからこれは巨人だけの傾向ではないが、テレビ中継が多く、注目されたり話題になることが多いために、目立ってしまうだけの話ではないのか。だとしたら、交流戦などではあまり対戦しない選手との対決があったり、新人投手を打ちあぐねているケースはどこにでもありそうだ。

 5 巨人ファンはO型で成り立っている?

 巨人・大鵬・目玉焼きという流行語があった。いずれも時代の寵児であり、日本国民の多くから支持される人気者である。でも私の周りもそうだが、血液型O型は、なぜか巨人ファンが断然多いという衝撃的事実がある。O型は勝ち馬に乗る傾向が強い。勝負師が多く、賭け事が好き、そして力関係に敏感なのだ。だから長いものに巻かれやすい性質がある。風見鶏傾向で日和見的なところも見え隠れする。強いものに憧れる傾向は強い。私の身の回りにいるO型10人に好きな球団を聞いたら、7人が巨人と答えた。好きな色は赤という人が5人と半数を占めたのも納得だった。

 6 巨人移籍のビフォー・アフター(スラッガー編) 打率・本塁打・打点比較

 トレードやFAで巨人に移籍してきた他球団の主力選手たち。しかも4番を張っていたスラッガーがいかに多いことか。
       
                 移籍前          巨人             移籍後

 張本 勲(日ハム)   .276  15   46     .355   22    93       .261  12  39
 蓑田浩二(阪急)    .241  13   50     .234    6    18       引 退
 石井浩郎(近鉄)      .286    0    0      .333   1    14        .266  10  51
 清原和博(西武)      .257   31  84      .249   32   95       .222  11  36
 マルチネス(西武)  .283   30  95     .324   16   56         引 退
  ペタジーニ(ヤクルト).322  41  94      .323   34   81       .281   1    9
 ローズ(近鉄)          .276   51 117     .287   45   99        .291  42  96
  李(ロッテ)            .260   30  82      .323   41  108       .201  15  51
 小久保(ダイエー)    .292   32  89      .314   41   96        .277  25  82
 小笠原(日本ハム)   .313  32  100     .313   31   88        .301   1  18
 広沢(ヤクルト)        .271  26   73     .240   20   72        .217   5   16
 
 
 さて、ご覧頂いた通り、巨人に纏わる不可思議エピソードをお送りしましたが、中には納得というのもあるし、巨人の盟主たるプレッシャーに押しつぶされた例もあった。

 これらのデータは一部の項目を切り取って検証しただけなので、パーフェクトではないが、多角的視点でプロ野球を観戦すれば、興味深く見ることも可能かもしれない。異論反論はあるかもしれないが、ひとつ視野が広がったくらいの感覚で見てもらえたら幸いです。

 記事作成:5月14日(木)

 追記

 巨人というのは不思議なチームで、昨年、今年とチーム状態は良くないのに、なぜか優勝し、今年は2位と好位置につけ、優勝争いに絡んでいる。しかし、今年は3割打者が皆無で、打撃15傑にひとりも入っていない。打撃部門の最高は打率.257の井端が最高。主力も怪我で二軍落ちもいた。投手陣だって、エース菅野も勝ち星が先行せず苦しいやりくりだ。新人の高木が頑張ってはいるものの、チームの防御率は2.78。これはセ・リーグ6チーム中4位で決して良くない。打てない、投げれないのに首位争いをしている。これは原監督の采配が凄いのか?まったくもって不可解だ。しかも対戦5チーム中、2チームに負け越している状況。これはよほど運が良いか、勝ち方が上手いのか?まったくもって不思議なチームだ。
そしてやはり打線は貧打。その現況は4番と主将の役目をまったく果たしていない坂本。復帰後5戦、20打数4安打。16回も凡打で終わり、チャンスを作れない、好機を潰す。スタメン出場させないでほしい。二遊間は井端と片岡で固定し、三塁に大田をコンバート、一塁に阿部、外野を亀井、アンダーソン、橋本到で固定してほしい。

 

映画・ドラマのロケとなった福島県の桜の名所

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 今年はいつになく桜の開花が早かった。4月初旬に見ごろを迎えた。日本三大桜に謳われる「三春滝桜」は、全国から観光客を呼び寄せる花見のメッカとなっている。
 ところで、ご当地福島県は、桜の花々が美しいことから、映画やテレビドラマなどに度々取り上げられている。今日は、それをテーマにお送りしたい。

 1.石部の桜(NHK大河ドラマ「八重の桜」)

 大河ドラマ「八重の桜」のオープニングに登場した。 「石部桜」は 田んぼ の中でのびのびと枝を広げていて堂々たる姿。 老木ながら花は可憐、この桜の見るべき は隆起した根元に広がる迫力の景観。 淡いピンクの花が咲き誇る満開時の姿はまるで桜の森。樹高11m、幹が根元から8本に分かれ、幹全体の枝張りは20mに及ぶ巨大なエドヒガンで会津五桜の中で1番早く開花する。 昭和43年、市の天然記念物に指定された。

Ishibe

 2.小沢の桜(映画「はつ恋」)

https://www.youtube.com/watch?v=W_bPC9ZPexI

 17歳の高校生・聡夏の春休みは、初めての失恋と母・志津枝の突然の入院で始まった。父・泰仁とのギクシャクしたふたり暮らし、思わしくない母の病状に、動揺する聡夏。そんなある日、病床の母の頼みで彼女が大切にしていた古いオルゴールを探し出した聡夏は、その中から投函されていない一通の手紙と一枚の写真を見つける。手紙は24年前に母が藤木真一路という父ではない誰かに認めたラヴレターで、色褪せた写真には若い頃の志津枝と藤木と思われる男性が写っていた。「私たちはこのまま終わりになってしまうのでしょうか?あの願い桜の下でもう一度会ってください…、桜が咲いたらもう一度」切ない母の想いが綴られた文面。それを読んだ瞬間、聡夏は母に内緒で藤木を探し、24年前の母の願いを叶えてあげることを決意する。その「願い桜」と呼んだ桜が、船引町(現田村市)にある「小沢の桜」だ。

https://www.youtube.com/watch?v=epGYJxJiRzw

 3.開成山公園(映画「時をかける少女」)

 さくら通り沿いの市役所の南向かい側の土手で撮影。桜のシーズンにはこの土手には上がれないようにロープが張られる。夜間はライトアップされる。陸上競技場&野球場へ入る門の西側部分(球場方向)がロケで撮影に使われた場所。ラストシーンに登場する。

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 4.映画「春色のスープ」

 ロケ地マップ

https://www.google.com/maps/d/viewer?ie=UTF&msa=0&mid=z_B1xCp_e1VY.ke9FuT2rlhlQ

 桜が綺麗な土手は、県立南会津高校西側の南郷保育所の裏手の川沿い。この映画では福島県内をくまなく撮影している。

 さて、桜のシーズンが終わった後に、このような記事も無いかと思うが、県内だけを見ても、これだけ多くの桜の名所が撮影等に使われている。満開時には駐車場を埋め尽くすくらい、そして周辺は大渋滞を引き起こすが、今は葉桜になっていて、見物客もいない。私は旅行では、放送中や、観光客が多く押し寄せている時には、そうした名所には行きたいとは思わない。ブームが去った後に、ひっそりした静寂な感じに堪らなく魅力を感じる。兵どもが夢の跡のような雰囲気を味わいたいのだ。だから、新緑や初夏の頃が最も旅に出たい時期となる。

 記事作成:5月2日(土)

雑感⑩ ~いちゃもんファイター~

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 今日の記事は、正直アップするかどうかさんざん迷った。当ブログのタイトルでもある「ひとりごと」の極致だ。自らの日頃の不平・不満をぼやいてまくし立てているだけなので、不快に思う人は絶対に読まないでいただきたいと思います。

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 1.韓国人の執拗さ

 戦後70年。歴史認識の相違から、未だに韓国人は日本に対し、積年の恨みを晴らそうと執拗に日本バッシングを繰り広げている。1910年、つまり105年も昔の出来事である「韓国併合」が、一世紀も時を隔てているのに、そんなにも気に食わないほどの屈辱だったのか?それとも単に朝鮮人は、過去を清算できぬ根に持つタイプが多いだけなのか?
 しかしながら、一方的に日本を責め立てている当の韓国は、北朝鮮の女性を強制連行し、「韓国軍の慰安隊」として働かせ、性奴隷化していた事実が明らかになった。また、ベトナム戦争時に、韓国軍がベトナム人の10代少女を売春婦にして「従軍慰安所」を設置していた。更に酷いことに、ベトナム人を大量虐殺した「ライダイハン」を犯した張本人でありながら、それらには蓋をして、戦時中にあったとやみくもに主張している旧日本軍の「従軍慰安婦」問題や「靖国神社参拝」問題などを旗印に、世界規模で反日運動を繰り広げる始末。その様は日本叩きを生き甲斐にしているとしか思えない所業だ。何かにつけて日本を過剰意識し、ことあるごとに反発し、揚げ足を取りたくて仕方ないようだ。

 実際は、旧日本軍による強制連行などではなく、あくまで新聞などで募集し、希望者を募って自らの意思で慰安婦になった方々だ。つまり、戦時中に生活苦に陥った女性たちが希望して入隊したとされている。つまりは売春婦で、それで生計を立てていたにすぎない。その証拠が下にリンクした当時の募集広告だ。

http://makizushi33.ninja-web.net/

http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/11.html

 この事実を韓国側が歪曲し、誤った教育で捻じ曲げた不真実を韓国人に叩き込み、さも日本に非があるように責任転嫁し、賠償金をせしめようと画策しているだけであろう。

 さらに、韓国の実態、韓国人の本性がわかるサイト(Yahoo!知恵袋)を見つけた。どちらも在日韓国人の疑問や主張を博学な日本人が冷静に理詰めで論破した答えまで掲載されている。

 1.http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13144175723

 2.http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10144591695

 こうした見解が世界の常識になっているのに、世界史を学校で教えず、自分たちの都合のいい教育しかしない韓国は、誤った歴史認識を幼少期から植えつけられているのだ。政府主導の「反日教育」を無理やり教え込まれ、哀れな国民はそれを信じ込むように仕向けられ、そしてそれを鵜呑みにしているから、歴史の真実ががどんどんすり替えられていくのだ。同じように北朝鮮もまた然り。ここは今もなお昭和初期のような現状で、そこだけが国際社会から取り残されているが、朝鮮人にはこのような古い体質や情勢が未だに色濃く残っていることを意味している。だから経済的な発展など望めないし、あり得ないのだ。

 しかも歪んだ教育を受けた韓国人は以下のように教え込まれている。

 つまり慰安婦を虐待したり、蛮行の限りを尽くして虐殺したというのだ。おそらくこれは韓国軍が行った数々の虐殺を隠蔽し、その証拠を隠滅するために、日本軍が行ったとすり替え捏造したのだ。それに「ライダイハン」は韓国がベトナムで行った残虐行為の中の一つの話。問題にしているのはライダイハンだけではない「ライダイハンを含めた当時の韓国軍がベオナムに対して行った残虐行為と疑われる事全てを指す」

 実際に起きた韓国軍による虐殺行為

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%82%A4%E...

ゴダイの虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%80%E3%82%A4%E3%81%AE%E...

タイヴィン虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E...


ハミの虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%99%90%E...

フォンニィ・フォンニャットの虐殺

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA

 韓国人たちは、このような自国の軍隊の虐殺行為には蓋をして、聞きたくないと目を背け、日本だけを執拗に責めたてる。自らの権利のみを主張して義務を果たさない。反省も出来ない国が、日本に責任を転嫁するほうがおこがましい。いや、おそらくは韓国政府が緘口令を敷き、このような事実があったことを国民には知らせてはいない。だからこの事実を知る由もない。一般国民には日本人がどれほど残忍な民族で「鬼畜日本」という反日教育だけを施し、日本を敵視するよう洗脳し、歪曲した概念を植え付けている。韓国人はもっと広い視野で自分たちの軍隊が過去に行った蛮行の事実にこそ目を向けるべきだ。

 そして愚直にも、つい最近も5月4日にユネスコが勧告した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」についても、韓国人が強制労働させられた負の遺産だとして、即座に反応して強固に反対を表明。しかも各国にも妨害行為を露骨に働きかける運動を展開し、世界遺産登録反対に同調するよう書簡まで送りつけた。それだけではない。対抗措置として、真相が定かでない「従軍慰安婦問題」を取り上げ、各国に根回しし、「記憶遺産」として登録するようユネスコに採択を求める苦肉の策まで飛び出した。まったくもってこの国は横やりを入れたり、言いがかりをつけることしか対抗策は持ち合わせていないのか?それが常套手段なのか?どうして労働を強いられた韓国人の功績があって、近代日本の産業は急速に発展できたと考えられないのか。何にでも否定的でケチをつけることしか出来ない。被害妄想が甚だしいし、日本のやることを逐一悪意を持って受け取る韓国は哀れとしか言いようがない。

 これまでも両国間で国際問題が持ち上がると、ことごとく責任を一方的に日本に押し付けたり、日本のせいにしていちゃもんばかりつけて来た。その大多数は戦争を知らない世代である。自らが生き残るための捨て身の戦略が日本バッシングしかないような身のおき方だ。
 一方の日本は韓国など全く眼中にないし、気にもかけていない。国際社会において、70年間も日本を名指しで批判する政治的手法は自爆をもたらすだけで、当の韓国は、世界中から嫌われていることを認識していない。「また始まった」「勝手に言わせておけ」という対応で、日本主導の重要な案件採択にはひとり蚊帳の外だ。

 日本政府は、先の戦争責任を反省し、これまでに経済的な支援と言う名目で、多額の援助金(賠償金代わり)をかなり支払ってきた。にもかかわらず、これでは韓国人は100年たっても200年たっても日本を敵視する以外に考えが及ばないし、それしか生きる道は無いと思い込んでいるのではないだろうか。
 ここで興味深い記事を発掘したので紹介したい。これは済州島出身の韓国人が、赤裸々に同胞の韓国人について批判したブログ記事だ。それによると「韓国人は嘘つきばかりで、韓国は独力で近代化を成し遂げた」と宣言しているが、「馬鹿を云うな。韓国の近­代化は日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたもの­である」との真実を告白している。

http://blogs.yahoo.co.jp/kyouikusaisai/33112695.html

 したがって、現在の韓国の繁栄は日本の支援の賜物だと認め、感謝の意を表すればいいものを、正反対の反日に動いている。この件に関しても仇で返そうとする。過去の歴史問題だけを重要視し、日本を自分と同じレベル(立ち位置)に引きずり下ろしたいだけだ。韓国人は裕福な日本を憎らしくて仕方ないのだろう。これは単なる妬みだ。自らが世界に誇るような功績を挙げられないために、日本が羨ましくて仕方ないのだろう。何をやっても経済面では日本に劣ることを自覚していながら、それを下衆なプライドで認めたくないだけだ。日本叩きしか頭にないネガティブ国家に繁栄などありえない。どうして未来志向で、日本と歩調を合わせ、共に友好的に経済発展を図ろうという発想に切り替えられないのか不思議だ。

 当の韓国では、幼少期から日本人は残忍で鬼畜であるかのような反日教育を叩きこまれてしまう。日本憎しの感情は小学生の時期から長年培われてしまい、いわば洗脳されてしまう。中国と同じく、日本を「小日本」呼ばわりしている。このような発想からは、「国際協調」などはまずありえないし、国際社会からますます隔絶し、嫌われる一方だ。それでも当の韓国人は、自らが世界の嫌われ者であることに気づかず、世界一優れた民族だと勘違いしている。そんな概念からは友好関係や信頼関係など生まれる筈が無い。日本で「嫌韓運動」が次第に拡大・浸透し、自滅や破滅の一途を辿っているだけなのだ。朴大統領の方針からは、「日本と刺し違えて心中もやむなし」の意図しか感じられない。だから、おとなしい日本人でも、同じことを繰り返す韓国とは金輪際断交や絶縁したいと思い始めているのも理解できる。アメリカですら、同盟国である弟分の日本をこれだけバッシングする以上、協調路線などありえない。よって在韓米軍の撤退を決めたのも当然の流れだろう。

 そしてこれまた愚行極まりない行為だが、韓国の歴代大統領は、日本を痛烈に批判することで、国民の支持を取り付けてきた。逆に言えば、それしか大統領としての生きる道が無かったのだ。親日的な発言をしようものなら、自らがバッシングを受けることとなる。在任中の5年間に大統領は逮捕されることはないが、辞任や退任後には決まって逮捕され、死刑を含む有罪判決を受けることが多い。歴代大統領の哀れな末路を見れば、指導者がどれほど誤った方向性で政治を行っていたか一目瞭然だ。

初代~第3代 李承晩 選挙不正で大規模デモを受けハワイ亡命。
第5代~9代 朴正熙 側近の中央情報部長に暗殺 夫人も暗殺の流れ弾で死亡。
第11代~12代 全斗愌 粛軍クーデターの反乱首謀容疑で逮捕、光州事件で無期懲役
第13代 盧泰愚 秘密政治資金がバレ収賄容疑で逮捕、懲役17年
第14代 金泳三 次男が会社社長から不正に受け取り逮捕される。
第15代 金大中 息子二人が金銭授受容疑で逮捕。
第16代 盧武鈜 収賄容疑で事情徴収、自殺した。
第17代 李明博 兄が不正資金で逮捕 長男も脱税容疑。

 これらの事実は韓国がいかに民度の低い国であるかということを証明している。

 韓国人はもとから、我が強く直情径行で、自分の言動や行動を棚上げして、相手の責任をとことん追及する民族だ。自分の主義主張こそ正しいことを証明したくて仕方ない。何かにつけて他者にいちゃもんや難癖を付けて断罪したがるし、相手を完膚なきまでに叩きのめしたい気質がある。したがって、常にトラブルが多いし、槍玉に挙げられた者は、企業家にしても芸能人にしても、政府関係者にしても自殺するしか道が残されていない。典型例としては、フェリー事故の対応の不味さ、ナッツリターンで槍玉に上げられた大韓航空の趙顕娥元副社長へのバッシングも凄まじかった。しかも女性芸能人の性接待が常態化している現状。ネットによる激しい中傷。他人と平穏に暮らすとか穏便にことを済まそうなどという発想は持ち合わせていないように思える。こんな国が「従軍慰安婦」云々など言う資格や権利がどこにあると言うのだ。韓国人の性犯罪は際立っており、それは日本の比ではない。ほかにも、問題が勃発する度に、日本の国旗を焼き払ったり、首相の写真を踏みつけたりする蛮行が繰り返し行われている。

 ここまで「抗日」や「反日」を繰り広げている韓国に対し、「韓流スター」だのとチヤホヤし、BSでやたらと韓国ドラマを放送している日本のテレビ局もどうかしていると思わざるを得ない。敵視している国家のドラマを無頓着に見たり、韓国歌手の歌を聴いて何になるのか?2002年の「日韓ワールドカップ共催」で雪解けムードだった両国の関係は再び泥沼化している。「靖国参拝」にしても、「竹島問題」にしても、言葉尻や些細な出来事を拡大解釈して大騒ぎしすぎ。要は攻撃材料を見つけ、重箱の隅を突き、日本を叩きのめせばそれで満足するだけの国民感情しか持ち合わせていないのだ。これでは観光客が韓国を訪れる筈が無い。日本を訪れた韓国人や中国人観光客のマナーの酷さはたびたび問題になるし、優れた日本文化や経済発展、産業、さらには街にゴミひとつない光景を目の当たりにしてグウの根も出ない筈だ。
 異文化交流の原点である友好的な概念を持って他国と接し、その文化や風俗などを受け入れたほうが得策だとどうして思えないのか。韓国を敬遠する一方で、親日家が多く、日本を崇拝している台湾への旅行客が多いことをどう捉えているのか。度を越した日本批判に、日本人も嫌韓感情を増幅し、今では韓国を好きな日本人は、歴史問題など知らない不勉強な輩しかいないと思う。

 そして、この度のGW中の安倍首相のアメリカ訪問で、オバマ大統領の歓迎ぶりは異様なほどで、日米同盟関係強化が全世界へ向けて発信された。日米が同盟を強固にアピールしたことで、これに韓国がメンツを潰されたと逆切れ状態。アメリカの可愛い弟分である日本を長年に渡って敵視し、過剰な批判を繰り返してきたツケが回って来た。朴大統領の「米中両国」を見据えた日和見二枚舌外交が破綻した格好だ。これで韓国は財政悪化に加え、軍事上の後ろ盾も失い、窮地に追い込まれた。韓国の国民感情が中国寄りに傾くとの見方も納得。いよいよ中韓同盟確立か?それともいっそのこと韓国を中国が併合か?いや下手すれば韓国そのものが中国に吸収されるかもしれない。そして中韓が束になって尖閣は中国の物、竹島は韓国の物と言い出すだろう。もしかすると、来年の今頃は中国に侵略され、韓国が滅び、中国の一地方化する可能性もある。そうなれば、ルール無視、法律違反が蔓延り、批判が批判を生み、喧嘩や内紛が絶えないことだろう。また、追い詰められた韓国が、生き残りを賭けて大博打に出て、朝鮮半島統一の道を模索し、日米に対抗する道を選ぶ可能性も全くゼロではない。それくらい朝鮮半島情勢は一触即発で危機的な状況になりつつある。
 今年12月にアメリカ軍が韓国から撤退し、2016年2月がXデーと言われるが、防衛上の拠点を失い、他国の脅威に晒される。いよいよもって現実味を帯びて来た。クーデター勃発により、平昌冬季五輪は中止に追い込まれ、IOCから膨大な違約金を請求され、ますます窮地に追い込まれる。いや、逆にこの政変を五輪開催中止の口実にしてしまうかもしれない。そうなれば、その理由すらも日本側に責任があると押し付けるアピールを展開するだろう。責任転嫁が甚だしいが、いずれにしても日本を敵に回し続けたツケを今後支払うこととなるが、韓国首脳の判断ミスが生んだ災いとその代償はあまりにも大きかったようだ。

 以前なら私も「冬ソナ」が大好きで、30回以上繰り返しDVDを見たし、小説も買って読んだ。W杯共催もあって、隣国同士が友好的に接し、両国の関係は雪解けが一気に進んだのは事実だった。ところが、韓国の日本に対する過剰意識による過敏反応が酷く、何かにつけ敵対しようとする韓国政府の方針に嫌気が差し、今では嫌韓の感情が強くなった。日本人から見れば、折に触れ、感情的に日本バッシングしている韓国は、もう相手にしたくない。日本を30年遅れで追っていた産業や経済を10年間で一気に縮めてきたことが日本の真似事だと気づくべきだし、安全面がおざなりになったせいで、自動車や鉄道、船舶でも事故が相次いだ。プライドだけを優先した結末が大勢の庶民を犠牲にした。そして歪曲した教育を施し、相手を敬ったり、友好的に接しようとする発想が欠如して、偏った見方しかできない国民に仕立て上げてしまう。北朝鮮もそうだが、これが朝鮮半島の民度レベルだ。経済的に裕福になった日本を妬み、日本を引きずり下ろしたくて仕方ないのだ。いくら日本が民間レベルで文化交流や問題解決に動こうとしても、韓国人の根底にあるのが、こうした卑屈な根腐れ根性では、心の底から打ち解けた友好関係など構築できるはずが無い。些細なことを拡大解釈し、重箱の隅を突くような偏狭さしか持ち合わせていない。こうした態度は破滅をもたらすだけだ。それを韓国政府は認識すべきだ。

 では、ここで在日朝鮮系の有名人を列挙したい。どことなくそうした顔立ちや気質があるのではないだろうか?ただし、差別や蔑視したりする意味合いはないのであしからず。

Nikkan

 韓国にゆかりのある著名人(NAVERのサイトに掲載されていたものを抜粋)

 古賀政男・・・7歳で朝鮮に渡り、仁川、京城で過ごし、高校卒業まで滞在した。
 張本勲・・・本名:張 勲(チャン・フン)。元プロ野球選手。在日2世。
 和田アキ子・・・韓国名は金現子
 井川遥・・・韓国名は趙秀恵
 玉山鉄二・・・父親の祖国が韓国
 金子賢・・・本名:金 賢(キム・ヒョン)。俳優。
 長州力・・・本名:郭光雄(カク・クワンウン)、通名:吉田光雄。山口県出身。在日韓国人2世。
 木下優樹菜・・・(本名:朴 優樹菜) 在日韓国人3世 父親は、民団の地区幹部でもある生粋の反日
 水沢エレナ・・・母親が韓国人
 真木よう子 ・・・本名 金森蓉子
上戸彩・・・本名は朴彩
 内山理名・・・本名は玉井杏奈 玉井は在日に多い通名 
 南明奈、安田美沙子は在日韓国人 
 倉木麻衣・・・在日 本名 呉麻衣、通名は青木麻衣

 その他、在日朝鮮人などの噂のある方々(真偽は不明)

 つんく、藤本美貴、石川梨華、松浦亜弥、加護亜依、後藤真希、前田日明(高日明)、 力道山(金信洛)、 ジョニー大倉(朴雲煥)、、 秋山成勲(秋成勲)、 岩城滉一(李光一)、 伊原剛志、金本智憲 、清原和博 、金村義明(金義明)、 松井稼頭夫(朴和夫)、 西城秀樹(李龍雄)、 安田成美(鄭成美)、 岡本夏生(李幸子)、 都はるみ(李春美)、 田中麗奈(鄭麗奈)、 星野真里(李真里)、 ソニン(成膳任)、 松任谷由実(金玉子)、 沢田研二(李研二)、 原田泰造(金泰造)、 大鶴義丹、 Crystal Kay、 にしきのあきら、 布袋寅泰、 松田優作、 羽賀研二、 矢沢永吉 、児玉清、 豊原功補 、椎名桔平、 東山紀之、 トミーズ雅 、島田紳助、 ほっしゃん、 木村祐一、 TKO木下、 ロンブー淳、 千原兄弟 、松坂慶子、 南果歩、 藤原紀香、 鈴木京香、 中山美穂、 伊藤蘭、 山本モナ、 滝川クリステル、 伊藤由奈、 夏川純、 優香、 瑛太 、Gackt

 もちろんここに掲載した方々は、日本人として活躍されている。到底、朝鮮との関係など皆無であるかに映るが、遠縁などどこかで繋がっているかもしれない方々だ。しかし、それは特段悪いことではない。日本人としての誇りを持って日本人として生活しているにすぎない。 

 この記事は、韓国人を批判するためのものではなく、日本人から見た韓国人の気質をありのまま、映ったまま感想として述べたものだ。おそらくは韓国人が日本人に「自分たちはどう見られているか?」という感慨を持つこともないだろうという考えからこのような記事を記載したまでで、あまり感情的ならないでもらいたい。これまで譲歩に譲歩を重ねてきた日本政府を逆なでし、批判を展開し続けて来た、反発傾向顕著の韓国への警鐘を促すものである。韓国人や中国人が日本へ来れば、日本人がいかに平和を愛し、人の迷惑になる行為を嫌い、争いを好まず、環境美化にも優れているかがよくわかる筈だ。つまらぬ意地を張って、日本に徹底抗戦を仕掛け、相手にされないことがわかると、世界を巻き込んで日本を悪者にしようとする画策は、自らが墓穴を掘っていることを認識すべきだと改めて訴えたい。

 まして2年後は、平昌冬季オリンピックが開かれる。国際的に韓国の恥を暴露しかねない。これまでも国際スポーツ大会に政治問題を平気で持ち出し、アピールする常識もない愚かな国だ。おそらくは日本選手には大ブーイングをくらわすだろうし、日本と対戦する相手チームに大声援を送るに違いない。日本が負ければ拍手喝采で、下手すると日本が勝っても日の丸の高揚は行わず、君が代すら流さない。たとえ流しても演奏中、ブーイングの嵐だ。マナーもへったくりもなく、二度と韓国では国際スポーツ大会を開催できないことを、自らが全世界に発信・アピールすることになろう。政治問題が解決しなければ、日本とアメリカは冬季五輪をボイコットしてもいいくらいだ。

 さて、日常の不満を書き立ててしまったが、どうも歳をとるとひがみ根性が身についてしまっていけない。これでも随分抑えているつもりだ。しかし、今日書き綴った内容は正論であって、炎上を恐れて思っていても言葉や文章で表に出さない日本人の気弱さを打破したいと思い、あえて憎まれ口を叩いた次第だ。

 記事作成:4月26日(日)

雑感⑪~続・いちゃもんファイター~

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 本来は昨日公開した「雑感⑩~いちゃもんファイター」にまとめた記事だったが、あまりにも韓国の目に余る日本バッシングに、ついつい熱が入り、長編になってしまったため、それ以外の記事が薄っぺらになってしまった。よって再度編集し、昨日公開予定だった後半部分を本日続編として掲載します。

 なお、昨日同様、あまりにも個人的な不平不満をまくし立てた記事であるため、不快に思う方が多いと思う。したがって、こうした類の記事は読みたくない方は、ここで別のページへ移動していただきたいと思います。

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2 挨拶しない最近の店員

 商売を志す者なら、「お客様第一」の精神がもっとも重要視されて然り。しかし、最近の店舗はいずれも客を客とも思わないぞんざいな態度の店員だらけだ。
 まず郡山市に本社を構える大手スーパーYB。私は近場の八山田店か日和田店に行くことが多いが、そこの店員はパートやアルバイトが多いせいなのか、まず客に挨拶などしない。それどころか自分のほうが偉いかのような横柄な態度の店員がやたら多い。狭い通路で客が通っても挨拶は愚か、自分の仕事優先。通路を商品の台車で塞ぎ、道を譲ろうともしない。呆れかえるばかりだ。客あっての商売ではないのか?社員教育がまったく出来ていない証拠。利益優先で客への対応は二の次三の次だ。レジのオバさんも会計が済んでも「ありがとうございました。またお越しください」のひとつでも言えばいいものを、それすら言わない。仏頂面で淡々とバーコードを読み取り機に通しているだけ。この前は、レジ袋削減のため、マイバッグを持って行き、会計後の色違いのカゴに広げ、「レジが済んだ商品はこの中に入れてください」と伝えたところ、おばさん店員は返答せず、いかにも面倒くさそうな態度で商品を入れた。バイトやパートで雇う際に、客への対応を教えないのか! 

 こういう輩は金欲しさだけで客商売には向かない。即刻クビにして貰いたい。客に不快を与えるような店員はいてほしくない。これからは客対応の良い「ブイチェーン」や最近オープンし、快適に買い物を楽しめる「BIGビッグ」に変えようかと思ったほどだ。

 同じようなことは、家電量販店も同じ。特に携帯電話売り場の店員は最悪。最初に嫌気がさした「Y電機」は論外。私は3ヶ月の間にパソコン3台、息子の大学進学で家電製品一式を買い揃え、100万円近く使ったのに、店員は客の顔すら覚えていない。しかもオレンジ色の服を纏った携帯売り場の女店員は最低。客を不愉快にさせる行動しかとれない。自宅から直近の家電量販店だが、二度と行かないと決め、私はもう9ヶ月間行っていない。

 また、郡山警察署斜め向いにある「安さ日本一への挑戦」を謳う「K電気」も酷い。客がそばにいても挨拶はまったくしないし、客がいじった機種を後を追うように画面を拭き始める始末。まるで汚い手で触るなと言いたげに・・・。しかもオバさん店員は、客にどかせて、通路を我が物顔で歩いている。しかも無言。オールドミスの嫌なタイプの典型だ。こうした客をぞんざいに扱うのは日和田と須賀川にある「Kデンキ」も同じ。特に携帯電話売り場の派遣社員がひどい。まるで客を監視しているかのような素振り。そして客がいるのに店員同士で大きな声で雑談している。しかも男子店員同士でだ。接客態度がまるでなっていない。客を何だと思っているのか?私は家電量販店に毎週行っているが、不愉快に感じることしかない。1時間携帯をいじっていても、誰ひとりとして挨拶しないし、客をほったらかしの無碍の応対ぶり。
 最近の量販店は、安くすればいいだろうと接客心得を教えないのか?本来、客相手の商売は、お客様あってこそ。笑顔で応対し、客に誠心誠意ご奉仕し、気持ちよく買い物をしていただくのが必須項目だろう。「おもてなし」の気持ちなど微塵もなく、単なる利潤追求ばかりでその基本精神を忘れている企業や店がいかに多いことか・・・。

 また、私の自宅の近くに会社がある黄色い外観でお馴染みの「Tタクシー」もまた酷い。会社の看板をつけて町を走っているのに、運転が荒い。しょっちゅうその後ろを走行することがあるが、前の車にピタッとつけて煽ったり、踏み切りは一時停止しないし、交差点では停止線の先まで頭を出して停車する。50キロ道路を20キロ以上オーバーの70キロ台で片側一車線の市道(八山田のヨークタウン~R4)を飛ばしている。考えられない。こういう無法運転をするタクシーには絶対に乗りたくない。東京の「MKタクシー」の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。客を相手に商売をするなら、お客最優先、安全第一がもっとも大切なのではないか。

 これを読んだサービス業(店舗経営)の社長はさっそく明日の朝礼で訓示して貰いたい。

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 3. 郡山市のおかしな条例可決

 我が愛する郡山市にも「アレ、変だぞこれ」と思うことがたまにある。平成27年3月に開催された市政定例会において、世にも不思議な条例が可決し、制定されることとなった。たぶん法的拘束力を有することになる。しかるにそのおかしな条例とは「地元郡山の蔵元が醸造した地酒で乾杯を推進に関する条例法案」である。つまり、宴会などの乾杯の時にには、ビールではなく、地元産の日本酒で乾杯しなさい」という法律だ。すでに3月11日から施行されている。
 これは明らかに独占禁止法違反だし、特定企業への肩入れであって公民癒着以外の何者でもない。ビール業界から反論や抗議があるのは必至。そしてなにより憲法で保障する思想の自由に反するものではないのか?まして日本酒は好き嫌いが激しいアルコール飲料だ。ビール好きの若い人が、いきなり日本酒またはジュースでの乾杯を強制されるなんて世も末だ。もちろんそれに反すれば、法的拘束力が発生する条例だけに何かしらのお咎めを受けることになるだろう。無論それは乾杯の時だけで、その後は何を口にしてもお構いなしだ。私は根っからの日本酒好きなので、大歓迎なのだが、こうした宴会の慣習にまで行政が口出しするのは如何なものか。
 大の大人が雁首揃えて、議会でこのような法案を議論するとは情けなさすぎる。他にもっと先決すべき大事なことがあるだろう。

 この「日本全国変わりダネ条例集」については、別記載の記事で、6月16日に公開する予定です。 

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 4. 農業系学部が無い福島県の大学事情

 平成の大合併前までは単独市町村で郡山市の米生産量は全国1位だった。さぞかし研究機関も充実しているものと思いきや、県内には農業試験場はあるものの、農業を勉強できる学術的な学校は皆無であることに気づいた。市議会では地元の国立大学である福島大学に郡山市内に農業系学部の設置を検討するように学長に要望打診した。郡山市にはかつてT&M郡山校の頓挫という苦い経緯があっただけに、招致運動には弱腰だ。しかし、震災で地元産品が風評被害で苦しみ、出荷量が大幅に減っている現状を鑑みれば、是が非でも農業の研究機関の設置が早急の課題である。大学が設置されれば、学生が集まり、不動産業界も潤うし、経済効果が期待できる。街に活気が出て駅前を始め、人の動きが活性化されるだろう。大きな恩恵をもたらす学部増設を是非前向きに検討してほしい。

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 5. いろいろな募金活動は本当に役立っているのか?

 特に疑いを持っている訳ではないが、これまでいろいろな募金活動を目にした。赤い羽根や緑の羽根、交通遺児への募金、恵まれない子供たちへの募金、被災地への募金、24時間テレビの募金、そして今回のネパール支援活動募金など。そしてよく耳にするのが各テレビ局で行う義援活動で、日本赤十字社を通じて被災地へ届けるというのだ。

 しかしながら、本当に私たちが寄付した募金が、正規のルートで正しく対象としている方々に渡っているのか?という疑問が沸く。もしかして募金活動を行っている団体そのものの活動資金に充てられていないだろうか?その組織の社員や職員の給料に回されているのでは?中にはいろいろな事件や事故、災害などに託けて、偽の募金活動を展開している悪徳な輩もいると聞く。きちんとした事業報告や会計報告、そして監査役も存在する形で正しく行われているのだろうか?私たちは人助けという名目で、目的も知らされず訳のわからないまま寄付をしていたとしたら、問題だ。そこで日本赤十字社についてヤフー知恵袋にあった疑問を流用したい。

回答(Yahoo!知恵袋より) 

赤十字で働いている人を「職員」と呼びます。
赤十字に定期的に寄付している人を「社員(会員)」と呼びます。
ややこしいかもしれませんが、それを前提として下記の話をすすめます。

日本赤十字社の収入源ですが、「社費(寄付金)」がメインです。
国からの補助金はそれほど多くはありません。
赤十字病院、血液事業、社会福祉施設等を運営する上で利益も生じますので、それも収入源になります。(赤字の施設も多いですが)

赤十字で働いている職員の給与・活動費・災害時に必要な物資(毛布など)などは、寄付金から捻出されます。(血液事業等の一部事業は、各事業の収入からまかなわれますが)
赤十字にどれほどの寄付金があつまっているかは、HP等で公表されているので確認してください。

赤十字の寄付に関して、「無理やり集金された」などと言う人もいます。
それは赤十字が寄付金の額に応じて表彰制度をもうけているため、町内会等が表彰を受けたいがために無理やり集金していたりしていることが問題だったりします。
赤十字が無理に集金を行うことはありません。

一つ勘違いしてはいけないのは、「義援金」と「社費(寄付金)」は全くの別物ですので、気を付けてください。
「社費(寄付金)」は、赤十字の活動をする上で必要な、人件費、物資購入費、活動費などにまわされます。
「義援金」は、被災者の生活支援のために、赤十字は1円もピンはねすることなく、被災者の手元に届くようにします。
義援金を送金する際などに必要となる事務手数料なども、社費(寄付金)から捻出されます。

多くのデマが出回っています。正しく赤十字を理解しましょう。
赤十字だけでなく近い活動を行なっている会社に関しても、事業収入、寄付金がメインです。

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 ちなみに赤い羽根は中央共同募金が行っている地域社会福祉のための募金が目的。緑の羽根は、森作りなどの国土緑化推進や自然保全のために行われる募金活動。国土緑化推進機構が主催で活動を行っている。
 赤い羽根は鶏を殺して羽根をむしり取っている動物虐待などではなく、 羽毛を取る為に飼われている鶏がいて、決して羽根を取ったから死なせてしまう訳ではないそうだ。

 さて、日常の不満を書き立ててしまったが、どうも歳をとるとひがみ根性が身についてしまっていけない。これでも随分抑えているつもりだ。しかし、今日書き綴った内容は正論であって、炎上を恐れて思っていても言葉や文章で表に出さない日本人の気弱さを打破したいと思い、あえて憎まれ口を叩いた次第だ。

 記事作成:4月26日(日) 再編集:5月11日(月)

 

芸能人そっくりさん3

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 このテーマでお送りするのは今回が3回目。芸能人は結構似ている人が多い。血液型が同じであれば、雰囲気まで似ているように思う。たぶん性格も・・・。今回は10組の有名人を取り上げるが、私見や主観が大半を占めているので他人が見たら似ていないと思うかもしれない。それを先にお断りしたい。

 有安杏果と鶴見虹子

AriyasuTurumi

 ももクロの有安杏果と女子体操選手で日体大の鶴見虹子(こうこ)。横顔が特に似ている。有安はA型だが、鶴見は不詳。たぶん同型だと思う。

 宮脇咲良と武田玲奈

MiyawakiTakeda

 HKT48&AKB48兼任の宮脇と「めざましテレビ」の「もっとイマドキ」に出演中の武田はそっくり!武田はなんと福島県いわき市出身の17歳。宮脇と同い年。宮脇はA型で武田は福島県に多いB型。

 玉山鉄二と長瀬智也

TamayamaNagase

 男くささムンムンの2人。顎鬚が良く似合い、野生的で男っぽい印象。ふたりともO型。玉山鉄二は、父親の祖国が韓国であることをカミングアウトした。

 徳井義美と高橋光臣

TokuiTakahashi

 徳井は芸人でチュートリアル。高橋はNHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」で松岡役を熱演。両者ともに血液型はA型。

 向井理と田中圭

MukaiTanaka

 両者ともO型。年齢も近く、向井は33歳で田中は30歳。向井は昨年、女優の国仲涼子と結婚し、世の女性を落胆させた。このほど妊娠が発表された。田中はNHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』で石田三成役を務めた。

 佐藤健と松坂桃李

Sato_2Matsuzaka

 両者共にA型。好青年という印象。

 中山優馬とさかなクン

NakayamaSakanakun

 ジャニーズのNYC所属の男性アイドルと東京海洋大学客員准教授で、魚類学者でもあるさかなクン。意外な取り合わせだが、顔立ちは似ている。両者共に血液型はA。一部サイトにO型と掲載してあるものもあるが、A型で間違いない。中山の姉のアイドル山田菜々もA型。

 田中麗奈と岩本乃蒼

TanakarenaIwamoto

 田中麗奈はCM「なっちゃん」が出世作となり、今では数々の映画やドラマに出演する女優。一方の岩本乃蒼(のあ)は、慶應義塾大学卒の日本テレビの女子アナ。両者共にA型。お嬢さん風の外見はやっぱり・・・。

 佐藤かよと眞鍋かをり

SatomanabeSatokayomanabe

 眞鍋と佐藤かよの両者ともA型。眞鍋は高学歴のタレントとしてブログの女王に君臨。一方の佐藤は、男性でありながら整形は一切しておらず、誰が見ても女性にしか思えない容姿。ふたりが並ぶと美人姉妹にしか見えない。

 志田未来と高畑充希

SidaTakahata

 両者ともにAB型。高畑は有村架純(B型)にも似ている。ABはB型の血も混ざっているからか?

 他にも女優の上野樹里とSKEの松井珠理奈は似ていると思っている。元アイドル「きゃんきゃん」のメンバーで現在、京本政樹夫人の山本博美とグラビアアイドルの柳ゆり菜も似ている。

 今日紹介した10組のうち、宮脇咲良と武田玲奈を除く全員が同じ血液型という不思議。やはり顔立ちは似てくるものか。これはもはや他人の空似の域を越えている。女性は髪形でイメージチェンジを図れるが、「ざわちん」の力を借りなくても、これなら誰が見ても似ていると思ってくれるだろう。芸能界では似ていることは、二番煎じと言って致命傷になることも多いが、誰かの真似ではなく、個性を発揮してくれれば、生き残れる確率は増すだろう。厳しい世界に身を投じ、プライバシーもなく、変装しなければ街も歩けない特殊な世界にあって、頑張っている方々にエールを送りたい。

 記事作成:4月26日(日)

1970年代を彩った時代フォーク

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 日本の音楽シーンを振り返れば、演歌や民謡を除けば、50年代の50’sブーム、60年代にビートルズが来日し、GSブームが巻き起こったり、エルビスプレスリーの登場によってロックンロールやロカビリーも流行った。欧米型、つまり舶来の音楽に影響を受けたことはその時代に流行った音楽を聴けば一目瞭然だが、70年代に入ると、GSがひと段落し、台頭してきたのが、ベトナム戦争反戦を訴えるフォーク、つまり反戦フォークだ。新宿駅の「ゲリラフォーク集会」や「カレッジフォーク」などが大流行したのもこの頃で、それが「シンガーソングライター」と呼ばれるマルチ型のミュージシャンが登場し、一時代を築いた「ニューミュージック」ブームが1977年(昭和52年)に巻き起こるまでミュージックシーンを彩ったのは「フォークソング」だった。当時は、「ヤマハポプコン」を始め、「中津川フォークジャンボリ」、「嬬恋サマーフェスティバル」などのイベントも数多く行われた。

 また、当地郡山市でも「ワンステップ・フェスティバル」が約5日間、真夏の祭典として開成山競技場を会場に行われ、当時名を馳せていた有名バンドやあの矢沢永吉、オノ・ヨーコ、沢田研二までもが出演した。それは今では信じがたい豪華キャストで華々しく開かれた夢の祭典だった。

 その70年代のフォークソングで思いつくのは、世代的に因幡晃の「わかってください」や吉田拓郎の「旅の宿」、チューリップの「心の旅」、かぐや姫の「神田川」が真っ先に頭に浮かぶ。私が個人的に好きなのは、「なごり雪」(イルカ)とか「22才の別れ」(風だった。この時代は、公害問題が深刻化し、オイルショックや首相の犯罪が明るみになった時代にあって、世相を反映するような、やや暗めの雰囲気を醸す楽曲が多く世に出た。

 上記以外で、歌手でメジャーだったのは、かまやつひろし、小室等、南らんぼう、友部正人、井上陽水、岡林信康、杉田二郎、谷山浩子、荒井由実、中島みゆき、上條恒彦、泉谷しげるあたりだ。グループでは、フォーククルセダーズ、古井戸、赤い鳥、シモンズ、六文銭、ベッツィ&クリス、ビリーバンバン、トワ・エ・モア、ダ・カーポ、ガロ、チェリッシュ、グレープ、オフコースなどだ。

 今日は、超メジャーで大ヒットした曲は除くが、当時はヒットしたものの、今では忘れ去れている名曲にスポットを当ててみたい。しかるに今日。紹介するのは以下に掲載する10曲だ。

 1 「花嫁」  by はしだのりひことクライマックス

 1971 年1月10日発売。ヴォーカルは、藤沢ミエ。暗いイメージのある駆け落ちを明るく前向きに表現した楽曲である[1]。1971年2月15日・22日付のオリコン週間ヒット・チャートで2週連続第1位を獲得したほか、同年の年間ヒットチャートで第7位を記録した。累計売上はミリオンセラーを記録。

 はしだのりひことシューベルツの風はコチラ

https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ

 2 「二十歳のめぐり逢い」 by シグナル

https://www.youtube.com/watch?v=a6wlW2iMslw (埋め込み処理なし)

 1975年9月21日発売。同曲はオリコンチャートにおいて週間最高では14位、約30万枚のセールスを記録、シグナルとして最大のヒット曲となった。

 3 「白い冬」 by ふきのとう

 1974年9月21日発売。北海道出身の山木康世と細坪基佳によるフォークデュオ。

 「春雷」も好きな曲だった。https://www.youtube.com/watch?v=23gVKR1l7Qk

 4 「池上線」 by 西島八重子

https://www.youtube.com/watch?v=yyWOsmA_0D0 (埋め込み処理なし)

 1976年4月25日発売された、セカンド・シングル『池上線』が極めて息の長いヒットとなり、自身の代表曲となった。

 5 「僕にまかせてください」 by クラフト

https://www.youtube.com/watch?v=PREHIXN6MxY

 クラフトのセカンド・シングル曲である。本作は1975年(昭和50年)に日本テレビ系で放送された土曜ドラマ「ほおずきの唄」の主題歌として起用され、50万枚のヒットを記録した。作詩・作曲したのは当時グレープのメンバーであったさだまさしである。当初、さだは楽曲名を「彼岸過迄」(ひがんすぎまで)としていたが、ディレクターの川又明博からイメージが暗いと指摘を受け、川又からの代案である「僕にまかせてください」が楽曲名として採用された。

 6 「夕暮れ時はさびしそう」 by NSP

 1974年に発売されたこの曲がNSPとしては最高位のオリコン11位の大ヒット。2005年7月1日にリーダーの天野滋が療養中の病院にて脳内出血で死亡。天野は大腸ガンで闘病中でありながらも、精力的に全国ツアーや諸活動を続けていた。

 7 「遠い世界に」 by 五つの赤い風船

 私の中では「逃避行」ソングと位置づけしている。嫌なことがあったりすると、人はその場から逃げ出したくなる。旅に出て自分自身を見つめ直し、元気を取り戻そうとする。そんな気持ちを代弁してくれる歌。チューリップの「心の旅」や山本コータローの「岬めぐり」もそんな印象。

 8 「ロードショー」 by 古時計

 1970年代後半に活躍した、日本のフォークデュオ。 デビュー曲「ロードショー 」は60万枚を売上げ、爆発的な人気を得た。

 9 「家をつくるなら」 by 加藤和彦

https://www.youtube.com/watch?v=YNhqeSwfx7Q

 ライブ音源しか残っていませんでした。1971年に発表された名曲。その後、パナホームのCMで使われた名曲。

10 「白いページの中に」 by 柴田まゆみ

 1978年のヒット曲。歌の上手さはぴか一。サビの部分の「長い~長い~坂道を、今、登って行く~」はいつ聞いても鳥肌が立つ。

 共通しているのは、70年代のフォークシンガーは皆、歌が上手い。そしてメッセージ性が強く、何かを世間に訴えているような印象。そしてハモったり、歌の高低差が激しい気がする。魂の叫びや心からの歌声という雰囲気が漂う。郷愁があったり、主義主張があったり、ミーハー的なところが微塵も感じられない。人間臭くても精一杯生きる、そんな世相を反映している名曲が多いように思う。私にとっては世代的には多少古い感じがあるが、名曲は世代や時代を越えて歌い継がれていくもので、命の歌という意識が強い。今回は、50代以上の方々には懐かしく青春時代を思い起こして貰えたと思う。
 現在は既に解散したり、引退しているシンガーが大多数だ。これほどの琴線に触れる名曲を生み出した時代に育って、自分は幸せだったと思う。そういう意味では、今日紹介したシンガーたちに感謝したい。この記事を読んだ方々が タイムマシンで若かりし頃の甘酸っぱい想い出の数々を蘇らせて頂けたら、私としては本望に思うし、幸甚です。

 記事作成:4月8日(水)


今週の山岸舞彩キャスター(5/18~5/21)

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毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

 ZERO

 5月18日(月)

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 5月19日(火)

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 5月20日(水)

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 5月21日(木)

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動物の平均寿命

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 人の寿命というのは、千差万別だが、日本人の平均寿命を考えれば、女性が86歳、男性は80歳というところで、霊長類のトップに君臨する人間は、やはり長寿と言える。
 一方、動物の平均寿命は、一般的に人間よりも短いと呼ばれている。ここでふと疑問に思うことがある。「鶴は千年、亀は万年」という言葉があるが、果たしてそんなに長生きする動物などいるのだろうか?実際のところはどうなのか調べてみた。今回は「動物の平均寿命」をテーマに、ランキング形式で検証したい。

       動物名     平均寿命     備考・予備知識

 1位   ゾウガメ    100年以上 中には250年以上生きた例もあり 生きた化石
 2位   ツル        65年程度 北海道に生息するのは丹頂鶴
 3位   ワニ        60年程度 熱帯から亜熱帯にかけて23種が生息
 3位   ゾウ        60年程度 アフリカ象は50万頭、アジア象は6万頭
 5位   タカ         50年程度 全長80cmのクマタカと全長55cmのカンムリワシ
 6位       ゴリラ       45年程度 マウンテンゴリラの寿命は野生で約35年。
 6位   フラミンゴ    45年程度 鳥類では大型だが、ツルと同様に長生き
 6位   カバ        45年程度  野生で約45年、飼育下で約50年。
 9位   オウム      40年程度 ペットとしても飼えるオウムは鳥類では長生き。 
10位   パンダ      30年程度 過保護の動物の典型。野生でも長生き傾向。

 ことわざは間違いではなかった。1位と2位はやはり亀と鶴が占めた。千年とか万年は誇大表現だったが、昔の人間の寿命が人生50年だったことを思えば、両者共にヒトより長生きしていたことから、このような表現をしたのだろう。実はクサガメとミドリガメは30年程度であり、基本的にカメは長生きと言えるだろう。

11位   ライオン     28年前後 百獣の王で弱肉強食の頂点。天敵がいない。
12位   クマ        27年程度 こちらも天敵がいないため、生きながらえる
13位   サル       25年程度 人間に一番近い存在だが、1/3程度
14位   ハクチョウ    25年前後 渡り鳥の代表格。
15位   シマウマ     23年程度 野生はもっと低いが、平均はこのくらい。
16位   キリン      22年程度 野生では10~15年、飼育下では20~27年
17位   ペンギン     20年程度 暑さに強いフンボルトペンギンは約25年。
18位   ウシ       20年程度  畜産用だと体重で出荷されるので寿命は短い
19位   トラ        15年程度  こちらも絶滅の危機に瀕している。単独行動。
20位   ワシ       15年前後  こちらも天敵がなく、鳥類の頂点に君臨。

21位   カモ        15年程度  カルガモのイメージが強く、15年は立派。
22位   オオカミ     15年程度  かつては狩猟に利用 ニホンオオカミは絶滅。
23位   女王アリ     15年程度  子孫を数多く残す役目を担う。
24位   ウシガエル   15年程度   生体の大きさによって変動。7年で死ぬ種もあり
25位   ハト        15年程度  10年前後が多いが、中には20年生きた例あり 
26位   コアラ       13年程度  豪州原産だが、こちらも手厚く保護されている。
27位   ブタ        12年程度  食用は6~7ヶ月ですぐに出荷
28位   カラス      12年程度  頭がいい生物というイメージ
29位   イヌ        12年程度  人間に一番なじみのある動物 狩猟や警察犬
30位   ネコ        12年程度   野生の猫は凶暴。しかしペットはこの程度。    

 以下はコメントも省略します。

31位   フクロウ     12年程度  38位   ウサギ       8年程度
32位   ヤギ          10年程度  39位   ウグイス       8年程度
33位   レッサーパンダ   9年程度  40位   ヘビ         7年程度
34位   アマガエル     9年程度  41位   タヌキ        7年程度
35位   チーター      9年程度  42位   インコ        7年程度
36位   ニワトリ       9年程度  43位   リス          6年程度
37位      イノシシ       8年程度


 平均寿命5年以上の動物を限定でお送りしました。

 上位50位までを取り上げたが、野生と飼育下などで差異は生じる。アフリカのサバンナなどでは、弱肉強食が著しく、草食動物は肉食動物の餌食になるため、平均寿命が低い。その分、絶滅回避と子孫を残すために、群れで行動し、被害を最小限に食い止めている。 
 最近では、絶滅危惧種などは、管理区域で手厚く保護される傾向にある。生物は、哺乳類、両生類、爬虫類、鳥類、魚類などに分類できるが、大型生物は比較的長生きする傾向が見受けられる。
 もちろん、未開のジャングルには未知の生物は多数存在するだろうし、生命力が高い生物も存在する。今日取り上げたのは、まさに氷山の一角で、もしかすると、まだ私たちがお目にかかっていない生物が地球上にはありふれているかもしれない。

 最後に、番外編として、まだまだ凄い長生きの特殊動物を紹介して、結びとしたい。

 1位  ベニクラゲ   不老不死  この生物の細胞をヒトに移植できる技術を発見すれ
                       ばノーベル賞ものだ。 コラーゲンが鍵
 2位  海綿動物    1550年    
 3位  アイスランド貝  410年  
 4位  ハオリムシ    250年 
 5位  アルダブラゾウガメ  250年
 6位  コイ         226年
 7位  ホッキョククジラ  211年 こちらも天敵となる生物がいない。
 8位  ムラサキウニ   200年
 9位  ムシトカゲ     200年
10位  ミル貝        160年

 記事作成:3月24日(火)

磐梯山(表磐梯と裏磐梯)

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 民謡にも歌われている磐梯山は「宝の山」と呼ばれていた。今でも活火山で、日本百名山に選ばれている。その宝の山に形容される威容を誇る磐梯山は、過去、3度に渡って大規模噴火を起こし、特に1888年の明治21年噴火ではその山の形が大きく変わってしまう「山体崩壊」を引き起こした。ではWikipediaに記載された資料を引用したい。

<磐梯山>

 1888年、水蒸気爆発が引き金となって磐梯火山で大規模な崩壊が発生。岩屑なだれによって長瀬川がせき止められ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼などの湖沼ができた。磐梯山の場合、山から湧いていた温泉により岩石の風化が進んでいたことが崩壊の要因となった。

 猪苗代湖の北にそびえる活火山(成層火山)で、標高は1904年(明治37年)に設置された三角点「磐梯」の1,818.61mを公式に用いていたが、同点が侵食されて消失したため2010年(平成22年)10月に同じ場所に新設して計測し直し、同年12月27日に1,816.29mに改められた。広義的には、主峰磐梯山のほか、赤埴山(1,430m)、櫛ヶ峰(1,636m)を含めて「磐梯山」ともしている。磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属する。

 元は『いわはしやま』と読み、『天に掛かる岩の梯子』を意味する。磐梯山の麓は南が表磐梯、北が裏磐梯と呼ばれる。表磐梯から見る山体は整った形をしているように見えるが、裏磐梯から見ると、一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せる。2007年(平成19年)には日本の地質百選に選定された。また、2011年(平成23年)には日本ジオパークに認定された。

 表磐梯

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 麓には日本で4番目に大きく、かつては透明度日本一にもなったことがある美しい猪苗代湖が広がっている。
 私は上戸(じょうこ)方面のから国道49号線を会津方面に向かう途中、上戸の長さ10mもない短い隧道を抜け、その先の右カーブを曲がった先、志田浜越しに望む磐梯山が大好きだ。空気が澄んで、雲ひとつかかっていな好天時には、間近に巨大な磐梯山に圧倒される。それほどの絶景が広がる。ナイタースキーへ向かう時には、リフトの帯が夜空を照らし、それは絵にも描けぬ美しさだ。

 裏磐梯

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 噴火によって堰き止められ、桧原湖、五色沼の湖沼群、秋元湖、小野川湖が誕生した。旧檜原村は、檜原湖の湖底に沈んだ。紅葉シーズンとスキー、ワカサギ釣りシーズンには観光客で賑わう。桧原湖は湖を一周できる遊覧船があり、大きく割れた火口部分と山体崩壊した概容が見て取れる。磐梯山のもうひとつの顔をあらわにしている。「磐梯山噴火記念館」では、貴重な資料が展示されているし、磐梯山の噴火時の様子や、周辺の地形の変化を3D映像で楽しめ、勉強になる。五色沼のハイキングコースを散策するのも良し、毘沙門沼で手漕ぎボートを楽しむも良し、キャンプにバス釣りなど楽しみ方はいろいろだ。

 これだけ、同じ山でありながら表磐梯(南側)と裏磐梯(北側)の外観が異なるのも少ないだろう。それほど、噴火の勢いは凄まじく、周辺の地形や風景を一変させてしまったことになる。山は一種の信仰の対象となるだけに、当時の人々は山神が怒ったと例えたのも無理はない。

 有史以降の噴火

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  806年(大同元年)に噴火し、それまで2,000m以上あった富士山型の山から、1888年噴火前の4峰(大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰)になったといわれているが、富士山型の山の崩壊については有史以前からの何度かの噴火によるものとの研究もある。崩壊の推定規模 5*108m3

  • 1787年頃 水蒸気噴火?
  • 1888年 7月15日 水蒸気噴火:岩屑なだれ、 火砕流、降灰、死者 461、堰止めにより檜原湖・秋元湖などが生じる。
  • 1938年 5月9、15日 ラハール(火山泥流) 死者 2
  • 1954年 4月3日 小規模岩屑なだれ
  • 1965年 気象庁による観測開始。
  • 1988年 火山性地震多発。
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     外国の火山での山体崩壊から磐梯山の噴火前の全体像を推測してみたい。

     セイント・ヘレンズの噴火前と山体崩壊後の比較 

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     右側の山頂部がふたつに分かれた噴火後の様子は、檜原湖から眺めた裏磐梯そっくりだ。2,500m程度あったとされる磐梯山は、水蒸気噴火で700mが吹き飛んで崩れ落ち、現在の1,816mとなった。つまり3分の1が失われた形だ。

     磐梯山の山体崩壊前の予想図と現在の姿

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     私たち福島県民が、何気なく見ている磐梯山。実は郡山市内からでも見ることができる。それは国道4号バイパスを安積町から市街地方面に向けて走っていると、バイパスの高架橋からその山頂部分を確認できる。また、ビッグアイの展望室からも確認できる。

     しかし、最後の噴火から126年が経過した今、蔵王や吾妻山で火山性微動が継続発生し、小規模噴火の兆候が見られる。昨年の御嶽山と言い、阿蘇山や桜島でも断続的に噴煙を上げている。そろそろ磐梯山も・・・という意識が芽生えて来る。たぶんあと10年は水蒸気爆発が起きる危険は少ないだろうが、御嶽山の噴火を教訓とし、危機意識の高揚と災害への備えは怠ってはいけない。ただでさえ、福島県は群発地震の多発地帯である。福島県沖を震源地とする地震も頻繁に起きている。したがって、私たちは、東日本大震災を経験した身として、同じ過ちを繰り返さないような手立てを常日頃から実践しなければならない。

     最後に、磐梯山の噴火で湖底に沈んだ旧桧原村の現在の様子をお伝えして結びとします。画像は季節によって水面から姿を見せる「大山祇神社」の鳥居。

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     記事作成:5月4日(月)

     ~お知らせ~

     明日5月27日は、私が愛してやまなかった「坂井泉水」さんの8回目の命日にあたることから、過去何度か掲載した彼女の追悼記事「坂井泉水の命日に寄せて」(坂井泉水FOREVER)をお送り致します。予めご了承願います。(SUZU)

    坂井泉水の命日に寄せて

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     今日5月27日は、2007年のこの日に不慮の死を遂げたZARDのヴォーカル、坂井泉水さんの8回目の命日にあたる。あの日から早8年とは、月日の経つのは何と薄情なのかと一抹の悲しみを覚える。私は、デビュー当時からずっとZARDの熱烈なファンだった。いやもっと遡れば、彼女が本名の「蒲池幸子」名義で、モデルとして登場していた頃から、ピュアで清楚でお嬢さん風の容姿に心惹かれていた。そしてどこか悲しげで影があって、謎めいた雰囲気にも。彼女のCDは毎回欠かさず購入し、聴き入っていた。
     しかし、あの日、NHKのニュースで彼女の急死が報じられ、我が耳を疑ったものだ。「何かの間違いだ!嘘であってほしい・・・」。そんな気持ちと共に、打ちひしがれた絶望感が全身を襲ったのだった。その衝撃のニュースはコチラ。

     https://www.youtube.com/watch?v=gqBj2x-eTwo

     彼女は生前、照れ性で自己表現が苦手な性質でありながらも、精一杯音楽を通じて私たちにメッセージを送り続けてくれた。時に悩みを吹き飛ばすような曲も書いてくれたし、人間が抱える内面の葛藤、悩みも打ち明けるように書き綴った詩歌は琴線に触れた。その美しくも儚い印象の詩は、人々の心に安らぎと癒しを与えてくれていた。それは今も変わらない。現に、私の車のCDにはいつも彼女のアルバムを入れている。彼女がその限られた命を燃やして訴えたかったことは何だったのか。切ない乙女心か?生への執着か?美しいものへの憧れか?人間の本質を包み欠かさず表現したと個人的には思っている。

     本日は彼女の命日にあたり、以前も当ブログで紹介した記事「坂井泉水FOREVER」を再掲することで、彼女を偲び、彼女の存在を永遠の記憶の中に閉じ込めたいと思う。10年経っても20年経っても、坂井泉水という素晴らしいアーチストがこの世に存在していたことを忘れないために。そして彼女の遺した遺作とも思える楽曲の数々を後の世代に語り継ぐために・・・。8年越しとなる哀悼の意を捧げたいと思います。ではお送りします。

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     「坂井泉水FOREVER」

     1990年代、その女性は日本のポップス界において最も光彩を放ち、輝いていた。彼女が出すシングルやアルバム曲は、毎週ヒットチャートの上位を独占。テレビアニメの主題歌に幾度となく起用され、誰もが口ずさめるシンプルでアップテンポでリズミカルなメロディーライン。しかし、神は無慈悲にも彼女に永遠の輝きを与えることはなく、試練を授けた。傍目には順風満帆の歌手人生に見えていたが、いつしか忍び寄る病魔に蝕まれ、あのような非業の死を遂げるとは思いもしなかっただろう。いやそれともそれも承知の上での覚悟の事だったのだろうか・・・。

     生前、彼女のデビューは秘密のベールに包まれていた。覆面歌手(ユニット)として、公の場に姿を見せることを頑なに拒むかのような身の置き方であった。まるで正体不明で、一時「彼女はこの世に実在しないのではないか」との憶測も飛び交うほどであった。デビュー当時の松山千春を彷彿させる、そんな不思議な存在だった。一体どんな人が歌っているのだろうと興味津々だった。独特な鼻にかかった甘ったるい声質。それでいて艶やかで伸びのある美声。初めて彼女の姿を見た時、私は言いしれぬ衝撃と感動を覚えた。「何て美しい女性なのだろう」と。ピュアな印象と透明感を醸し、現代の若い人には珍しいくらい独特な落ち着き。そしていつも伏し目がちで少し影を感じさせる妖しい雰囲気の持ち主。何もかもが魅惑的で神秘的。
     彼女はデビュー前、様々な職業をこなしていた。レースクイーンやモデル、カラオケのPV出演、そして時には、その美形な顔立ちと豊満な体型を活かしてヌードやAV紛いのビデオにも出演していた時期があったようだ。しかしそれは自らの身を立てる為の最終手段で、内心は歌手になることを捨て切れなかったということで、何も引け目を感じることではないし、ファンへの裏切り行為でないことは明らかである。
     しかし、もしかすると、そうした過去を包み隠そうとしてテレビ出演を拒み、CDリリースのみで自分の感性を発表する場とし、そのような存在形態を確立しようと模索していたのかも知れない。そして彼女の雰囲気の中にあるそうした「影」の部分を自然に作り出していたのかもしれない。彼女のCDジャケットやZARDのボーカルとして撮影された画像は、殆どがカメラ目線はなく、素顔を見せることを避けているかのように伏し目がちかあるいは遠目に撮影したものばかりである。ファンならずともここで言う「彼女とは誰なのか」もうおわかりだろう。そう、彼女とはポップス系ユニット「ZARD」のボーカルだった「坂井泉水」である。

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     彼女の歌声は1990年代、世の中を席巻し、テレビ、ラジオ、CDショップなどでは毎日のようにBGM替わりに流されていた。リリースする曲がすべてメガヒット。私は8cmCDの時代から、ずっとZARDのシングルを所有していた。デビュー曲の「Good-bye My Loneliness」から遺作となった「グロリアスマインド」まで。シングルは実に45枚発表された。オリコン調べによる(2009年6月現在)ランキングによると、アーティスト・トータル・セールス(CD総売上枚数)は3,743万枚で歴代7位の記録。シングル:1,768万枚(女性ボーカルアーティスト歴代2位) 、アルバム:1,971万枚(女性ボーカルアーティスト歴代4位) 、シングルTOP10獲得数:43作(歴代5位タイ)(女性ボーカルアーティスト歴代2位)、 90年代アーティスト・トータル・セールス:3位(女性ボーカルアーティスト1位) 、シングル1位獲得数:12作(女性ボーカルアーティスト歴代4位) 、シングルTOP100チャートイン数:45作(90年代デビューアーティスト歴代2位)、アルバムミリオン獲得数:9作(歴代4位タイ)、アルバム連続ミリオン獲得数:9作(歴代1位)、アルバム1位獲得数:11作(女性ボーカルグループ1位タイ)という実に輝かしい記録である。

     <私の好きなZARDの曲ベスト20>

     1位 「揺れる想い」・・・1993年5月19日発売 最高位1位
     2位 「マイフレンド」・・・1996年1月8日発売 最高位1位
     3位 「永遠」・・・1997年8月20日発売発売 最高位1位
     4位 「負けないで」・・・1993年1月27日発売 最高位1位
     5位 「心を開いて」・・・1996年5月6日発売 最高位1位
     6位 「君に逢いたくなったら」・・・1997年2月26日発売 最高位2位
     7位 「きっと忘れない」・・・1993年11月3日発売 最高位1位
     8位 「この愛に泳ぎ疲れても」・・・1994年2月2日発売 最高位1位
     9位 「風が通り抜ける町へ」・・・1997年7月2日発売 最高位3位
    10位 「愛が見えない」・・・1995年6月5日発売 最高位2位
    11位 「こんなにそばに居るのに」・・・1994年8月6日発売 最高位1位
    12位 「Good-bye My Loneliness」・・・1991年2月10日発売 最高位9位
    13位 「眠れない夜を抱いて」・・・1992年8月5日発売 最高位8位 
    14位 「君がいない」・・・1993年4月21日発売 最高位2位
    15位 「運命のルーレット廻して」・・・1998年9月17日発売 最高位1位
    16位 「息もできない」・・・1998年9月17日発売 最高位3位
    17位 「瞳閉じて」・・・2003年7月9日発売 最高位4位
    18位 「もう少しあと少し」・・・1993年9月4日発売 最高位2位
    19位 「あなたを感じていたい」・・・1994年12月24日発売 最高位2位
    20位 「痛いくらい君があふれているよ」・・・1999年10月14日発売 最高位5位
    次点  「この涙  星になれ」・・・1999年12月1日発売 最高位5位

      シングル曲ではないが、「Oh my love」も大好きな曲だった。

     タイトルを見ると、彼女はまるで自らの死期を悟り、悲しい別れを暗示しているかのような意味深なネーミングばかりである。タイトルを知らなくても、そのサビの部分やメロディラインの一部を聴いただけでも一度は聞き覚えのある曲ばかりに違いない。

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     次に、デビュー前から彼女がスターダムにのし上がるまでの経歴をここで簡単に振り返ってみたい。
     彼女は1967年2月6日神奈川県平塚市生まれ。秦野市育ち(小学校4年より)。本名は蒲池幸子。血液型はA型。秦野市立西小学校、秦野市立西中学校、神奈川県立伊志田高等学校卒業。中学時代は陸上部で活動をする傍ら、ギタークラブでも活動していた。高校時代は硬式テニス部に所属。松蔭女子短期大学を卒業後、不動産会社にOLとして約2年間勤務した。
     しかし、転機が訪れた。街頭でスカウトされ、スターダストプロモーションに所属し、本名「蒲池幸子」でモデル活動を行う。モデル時代の公式プロフィールは1969年生まれとなっていた。この時期、セミヌード写真集「nocturne」を出している。1989年(22歳) からドラマや人気歌手のPV、更にはバラエティ番組のアシスタントなどに多数出演する。東映カラオケのPR活動などで地方のカラオケ店を巡業する。この企画はZARDでの歌手デビュー後の1991年3月まで続いた。日本エアシステムのフルロードキャンペーンのキャンペーンガール。
     1990年(23歳)の時には日清カップヌードルレーシングチーム(2輪)のレースクイーン。岡本夏生は同期。 6月、写真集『Body Works』出版。 6月21日、ビデオ『SEXY SHOOTING』(サザンクロスビデオアーツ)発売。7月24日、写真集『NOCTURNE出版。モデルやグラビアアイドルとして順調に仕事をこなしていた。 冬にはフジテレビ系番組『オールナイトフジ』のグラビア美少女のコーナーに出演。 その他、雑誌グラビアに多数掲載される。これらは華やかで決して下積みとは呼べないが、彼女がひた隠しにしたかった過去だったのかもしれない。
     そしてまたまた一大転機が訪れた。1990年8月に所属の「スターダストプロモーション」の代表取締役、細野義朗にビーイング社長、長戸大幸を紹介されオーディションを受ける。長戸に才能を認められ、坂井泉水として音楽ユニット「ZARD」結成の準備に入る。そして念願だった歌手デビューを1991年(24歳)で果たすこととなった。2月10日にシングル「Good-bye My Loneliness」でデビューし、 以降、音楽活動を続ける。それ以降の活躍については前述の通り。

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     「美人薄命」とは彼女のために用意された言葉なのかも知れない。運命の悪戯に翻弄され、天国と地獄の両方を味わい、人知れず病気と闘い、ひとり天国へと旅立っていった。ファンにあまりにも突然の悲しい訃報を残しただけで・・・。彼女は素顔を晒すことはあまりなかった。あれだけの美貌の持ち主ながら、結婚もせず、女性としての幸せを掴むことすら望まなかったように思える。ここから先の文面は、ややショッキングなため掲載するかどうか迷いに迷ったが、彼女の人生を締め括るエピローグなので、やはり包み隠さず全てを掲載したい。

    Sakai11 2000年以降、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症と次々に病気を患い、通院の日々が続いた。その年のNHK紅白歌合戦を「体調がすぐれないため」として出場を辞退した。2006年4月、仕事中に体調が悪化したため、病院で検査をうけたところ子宮頸癌が発見される。6月1日に慶應義塾大学病院で病巣の摘出手術を受けて、7月に退院。 2007年年4月、肺への転移が見つかり、再入院。入院中は抗ガン剤による治療を受け、治療後のアルバム製作とコンサートツアーに向けて作詞を行うなど、再始動を目指していた。しかし、5月26日朝の5時40分頃、目撃者の証言によれば、入院先の病院内のスロープの手摺りに腰をかけていたのだが、そこから3メートル下に予期せぬ転落をして、駐車場で仰向けに倒れているのを通行人に発見される。ICUで緊急処置を受けたが、翌5月27日午後3時10分、後頭部強打による脳挫傷で急死し、還らぬ人となってしまった。倒れていたのが早朝6時前という時刻で、あまりにも不自然で不可解な突然死に、事件事故の両面から検証が行われたが、自殺とみられる兆候はなかったことから事故として処理された。これからという矢先の40歳という若さでの孤独な旅立ちであった。しかし真相は本人にしかわからない。闘病生活に疲れ、死を予感して、または先行きを不安視しての発作的に自ら落ちたのかも知れない。彼女の葬儀は青山葬儀所で、しめやかに親族だけの密葬として執り行われた。そして、レコード会社と所属事務所の合同音楽葬としてファンとのお別れ会が6月27日に青山斎場で開かれ、往年のヒット曲が会場に流れる中、四万人を越える大勢のZARDファンが詰めかけ、あまりにも唐突で早すぎる死を悼むと共に、彼女との永遠の別れを惜しんだ。

     彼女の衝撃的な死から早いもので3年以上の月日が流れた。私は未だに彼女がもう過去の人だという事実を受け止めきれないでいる。彼女のPVを見ると居た堪れない気持ちになる。今でも「名探偵コナン」のエンディングテーマに坂井泉水の声が鳴り響く時がある。私は毎日のように彼女のベスト盤CD(MD)を聞きながら、職場までの道のりを往復運転している。彼女の甘い歌声、時には「彼女が生涯をかけて伝えたかったことは何だったのか」という文字通り命題に至るまで深く考えさせられ、身につまされて感じることもしばしである。もう二度と生で歌う姿を見ることは叶わないが、彼女のあの愛らしい、そしてちょっと照れた素振りで歌う姿やスタイル、笑顔、そしてその美声を永遠に忘れはしない。
    「坂井泉水、フォーエバー(永遠なれ)!」

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     最後に在りし日の彼女の歌声をどうぞ!私が一番好きな「揺れる想い」もあります。

    http://www.youtube.com/watch?v=lvYW1KDIPlI&feature=related

     「心を開いて」

    「♪人と深く付き合うこと 私もそんなに得意じゃなかった
    でもあなたを見ていると 私と似ていてもどかしい
    そういうところが たまらなく好きなの♪」

     この部分歌詞が大好きで、おそらく彼女自身もこういう生き方をしていたのだと思う。

     Oh my love

    http://www.youtube.com/watch?v=dbqrY2vmSQ4&list=RD02OZEt21pk6pM

     「負けないで」の秘話

     関連記事(我が永遠なる歌姫)はコチラ↓

    http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-abd8.html

     「負けないで」に寄せるファンの想い

     詩を大事にした坂井泉水の曲作り

     彼女の面影を偲ぶ「ZARD Small Live」はコチラ

    https://www.youtube.com/watch?v=fU494K-3cps

     
     記事作成:3/26(木)

     坂井泉水さんのお墓参りの記事はコチラ ↓

    http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1022-6804.html

     * ご親族の強い意志により場所が特定できないような処置を施してあります。予めご了承ください。

     坂井泉水さんの転落事故現場訪問の記事はコチラ ↓

    http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1023-1efb-1.html

    伝説のバンド~柳ジョージ&レイニーウッド~

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     今回このシリーズ記事も12組目を迎えた。今回是が非でも紹介したいのは「柳ジョージ&レイニーウッド」。なぜ伝説かと言うと、リードヴォーカルの柳ジョージは今はもうこの世にいないからだ。和製エリッククラプトンの異名をとり、哀愁たっぷり、嗄れ声が特徴で、いい味を出していたオジサンシンガーだった。ロックとブルースを愛し、地元の横浜とお酒を愛し続けた孤高の歌い手だった。

     バンドのプロフィール

     柳ジョージ&レイニーウッド は、柳ジョージを中心に結成された、日本のロック及びR&Bバンド。1975年結成、1981年解散。つまり、6年間という短い活動時期だった。
     1975年、広島でバンド活動をしていた上綱克彦、石井清登、宮田和昭、四ツ田ヨシヒロと知り合い、「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成。
     1978年、セカンドアルバム『WEEPING IN THE RAIN』のアルバムタイトル曲が、萩原健一主演のテレビドラマ『死人狩り』のテーマソングに使われ、英語の歌詞を日本語歌詞に代え「雨に泣いてる」のタイトルでシングルカット、大ヒットを記録しブレイクした。その後、玄人受けする大人のロックバンドとして人気を博し、多くのヒット曲を放った。資生堂のCMソングに使われた「微笑の法則 SMILE ON ME」を含む1979年の4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE」は、オリコンアルバムチャートで初登場1位を獲得した。
     1981年暮れの日本武道館コンサートで解散。その他、代表曲「FENCEの向こうのアメリカ」「さらばミシシッピー」「ヘイ・ダーリン」「プリズナー」「青い瞳のステラ、1962年夏…」など。
     解散後、柳ジョージはソロで活躍。他のメンバーは「THE WOOD」としてメンバーを代え活動したが解散。
     2011年10月10日、腎不全のため横浜市内の病院で死去]。63歳没。

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     それでは男なら誰でも憧れるようなカッコいい歌い方、ギターの手さばき、そしてその存在感と生き様をご覧ください。

    1位 「微笑の法則 Smile on Me」

    2位 「海に泣いている」 1978年12月リリース

    3位 「青い瞳のステラ 1962年夏・・・」 1980年7月リリース

    4位 「酔って候」 1978年4月リリース

    5位 「フェンスの向こうのアメリカ」 

    6位 「BURNING」

    7位 「さらばミシシッピー」(埋め込み処理無効映像です)1980年11月

    https://www.youtube.com/watch?v=LOJ3kLi0XNM

     他にも「プリゾナー」、「タイトロープ」など、人生の闇の部分にスポットを当てたような楽曲が多い。
     彼が死後も多くの人々の心を惹きつけるのは、ギターの上手さもさることながら、そのハスキーボイスが奏でる楽曲の数々には魂が宿り、ソウルフルにしてパワーを感じ、人生そのものを歌い上げているからで、こうしたロック&ブルースの歌い手は21世紀ではほとんど見かけなくなった。活動した時代背景が今とは異なる点もあるが、どこか泥臭い部分もあって、その歌詞が相まってひしひしと心に訴えかけて来るし琴線に触れる。

     声質が1970年代を中心に活動し、私もあの歌声が大好きだった「トランザム」にそっくりだったこともあってよく聴いたものだ。やはり歌が上手い本物の歌手と言うのは、飽きられることなく、いつまでも世代や時代を越えて語り継がれるし、後世に残るものだということを彼を見ていて実感する。久し振りに聴いても聞き惚れてしまう。

     最後に、この時代、同じ年代のバンドには「男達のメロディー」の「SYOGUN」や「何も言えなくて・・・夏」が大ヒットした「J-WALK」がいたことを付記し、更には彼のご冥福を心よりお祈り申し上げ、結びとします。

     記事作成:5月8日(金)

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