最近、テレビのアナウンサーを取り上げる記事が多くなってきた。理由は物心ついた頃からのテレビっ子を自称する私にとって、アナウンサーは身近な存在だった。歌謡番組、ニュースキャスター、ワイドショーの司会までマルチにこなし、それは喋りのプロとして憧れの存在だった。しかも有名一流大学を卒業していることから、賢くて知性の塊のように子供の目には映ったのだ。そこで昔から今日まで活躍してきたアナウンサーやキャスターで、今は引退したり、退職し、一線から退いた型、あるいは華麗なる転身を成し遂げた方々をピックアップしたい。
小林完吾
國學院大學卒。1974年から『NNNきょうの出来事』のメインキャスターとなり、独特の低音による「あ、さて」の名調子で知られた。同番組では、櫻井よしこと深夜の時間帯に落ち着いたニュースを伝え、地味ながらも次第に幅広い支持を受け、根強いファンを得るに至った。真面目で堅物という存在が誰もが抱く印象だろう。血液型はA
大橋照子
日本短波放送の看板アナだった。山口県周南市生まれ。東京都立駒場高等学校、慶應義塾大学文学部ドイツ文学科卒業。大学在学中にFM東京で、『ファッション・クラシック』という番組を持つ。卒業後に日本短波放送(現日経ラジオ社)にアナウンサーとして入社。公開番組『ヤロウどもメロウどもOh!』などの番組を担当し、深夜放送・BCLブームに乗って「チェリーちゃん」の愛称で一躍人気DJとなった。人気となった時期には熱狂的なファン(親衛隊)が会社の通勤に同行していた事もあり、結婚後も同行していた(本人も公認。買い物の荷物を持って同行していたファンも存在していた)。幾度か週刊誌にも取り上げられたり、放送時期は不明だが、テレビのドキュメント番組でも取り上げられた事もある。
その後フリーアナウンサーとなり、『ポップス・ベストテン(ニッポン放送)』、『ラジオはアメリカン(TBSラジオ)』、『ルックルックこんにちは(日本テレビ)』、『これキメ(文化放送)』などに出演した。1985年から5年間、アメリカ・サンフランシスコに住み、現地で日本語放送の番組に出演していた。 また、サンフランシスコの小学校で、スピーチ教育に携わる。NPO「日本スピーチ・話し方協会」代表。血液型はA
見城美枝子
フリーアナウンサー、エッセイスト、ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター。青森大学社会学部教授、サイバー大学客員教授(日本語文化論)、日本リーダー養成協会理事長。三越の元社外取締役で現在は顧問。群馬県館林市出身。群馬県立館林女子高等学校、早稲田大学教育学部英語英文学科卒業後、1968年にTBSへ入社、アナウンサーとして活動した。「ケンケン」の愛称を持ち、おはよう720→おはよう700(1975年 - 1980年)の司会を務め、同局の五木田武信らと「キャラバンII」の海外ロケも多くこなす。この間1973年に退社し、フリーとなる。1981年、24時間テレビ「愛は地球を救う」(第4回、日本テレビ系)で徳光和夫とともに総合司会を務めた。
櫻井良子(よしこ)
ベトナム・ハノイの野戦病院で日本人の両親の間に生まれた。新潟県立長岡高等学校卒業後、慶應義塾大学文学部に進学するが中退してハワイに渡り、奨学金とアルバイトで学費と生活費を稼ぎながら、ハワイ大学マノア校歴史学部卒業。
英字新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』東京支局などを経て、1980年(昭和55年)5月より日本テレビ『NNNきょうの出来事』のメインキャスターとなった。以来、同番組で1996年(平成8年)3月までの16年間に渡ってアンカーパーソンを担当した。女性ニュースキャスターの草分けである。実に華やかな経歴を持ち、現在はジャーナリスト。国家基本問題研究所理事長。血液型はO。
幸田シャーミン
1980年代の故・逸見政孝と共に夕方のニュース番組「スーパータイム」のキャスターを担当し、一世を風靡した。
聖心インターナショナルスクールを経て、1979年(昭和54年)に聖心女子大学英文科を卒業。大学在学中にはパリ大学ソルボンヌに留学、パリ滞在中にはジャン=ピエール・フルリモン(Jean-Pierre Fleurimon)メイクアップスクールにも学んだ。幸田は当時、弁護士かメイクアップアーティストになりたいと思っていたという。大学卒業の後、『海外ウィークリー』(NHK)や『FNNスーパータイム』(フジテレビ)に出演するようになった。後者へは1984年(昭和59年)から3年半に渡って出演、逸見政孝とともにキャスターを務めた。同番組のオープニングでの幸田のタイトルコール、鼻にかかった「こんばんは、幸田シャーミンです」という喋りは特徴的であり、タレントの明石家さんまや清水ミチコから声優の生天目仁美までに物真似されたこともある。現在は国際連合広報センター東京所長、東京農業大学客員教授を歴任。
露木茂
早稲田大学高等学院を経て早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。高校・大学時代はボート部、大学途中でアナウンス研究会に所属。夕方の報道番組キャスターを5年務め、『あさま山荘事件』『日本航空123便墜落事故』の報道でフジテレビの報道特別番組を担当(日航機墜落事故の際は、本来のキャスターである逸見政孝が夏期休暇中だったため)。この功績が認められ、日本新聞協会賞を受賞した。そのかたわら1978年から18回の長きにわたり『FNS歌謡祭』の司会を担当するなど、バラエティでも活動した。また山田祐嗣が退職した1989年からはフジテレビで最年長・最古参のアナウンサーだった。社内では29歳で報道局解説委員になったのを皮切りに、アナウンス部担当部長、編成局専任局次長、編成局専任局長、役員待遇メディア事業本部専任局長、役員待遇解説委員兼エグゼクティブアナウンサーを歴任(いずれもアナウンサー兼務)。2000年12月31日の定年退職までフジテレビで勤め上げた。。東京国際大学特命教授・客員教授。元早稲田大学客員教授。日本記者クラブ企画委員。血液型A。現在72歳。
俵孝太郎
大仏を彷彿させる外見とビートたけしにモノマネされたほどの決め台詞で時代を作ったアナウンサー。東京高等師範学校附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。東京大学文学部倫理学科卒業。産業経済新聞社大阪本社社会部記者。産業経済新聞社大阪本社政治部記者。サンケイ新聞社東京本社政治部記者などを歴任。文化放送ニュースキャスター。フジテレビニュースキャスターを務めた。
1987年11月 大蔵省財政制度審議会委員(4期8年在任)。
2001年1月~2010年 財務省財政制度等審議会財政制度分科会専門委員 。
とにかく輝かしいキャリアの持ち主。血液型はA。現在82歳。
木村太郎
アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレーに生まれる。慶應義塾幼稚舎から進学した慶應義塾高等学校を放校後(ビリヤードに通いつめたとの弁)、1957年に東海高校、1964年に慶應義塾大学法学部卒業(新聞研究所、現メディアコミュニケーション研究所修了)で学位は法学士。3年間、外国に遊学に行っていたため大学に7年間在籍し学部を卒業した。1964年NHKに入局後、報道記者として活動。NHK徳島放送局記者、NHK神戸放送局社会部記者(~1969年)、東京本部社会部遊軍記者(1969年~1974年)、パリ支局中東・アフリカ担当(ベイルート駐在、1974~1976)、ジュネーヴ支局特派員(1976~1978)、東京本部外信部記者(1978~1980)、アメリカ総局(ワシントン支局)特派員(1980~1982)と主に海外支局特派員を経験する。
1982年からは同局の総合テレビでの看板ニュース「ニュースセンター9時」のメインキャスターを務め人気を博し、1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故では日本航空広報部からの記者会見を差し置いて、乗客名簿の読み上げを優先させるようにするなど、記者時代の感覚でニュースの重要度を判断した。NHKを退職。木村太郎事務所を設立し、フリージャーナリストに転身並びにフジテレビと専属契約を結ぶ。その年のアメリカ大統領選挙をフジテレビの現地キャスターとして取材した。
1989年4月からはフジテレビ「FNN DATE LINE」のメインキャスターに就任。1990年4月からは「FNN NEWSCOM」のメインキャスターを務め、エンディングのダジャレが話題となった。1994年4月からの「ニュースJAPAN」ではコメンテーターとして出演、2000年4月からは「FNNスーパーニュース」のコメンテーターとなる。2010年4月より、それまで月~金曜日の全日レギュラーであった「FNNスーパーニュース」への出演を、月~木曜日に変更。
生涯現役キャスターを貫いたエリート。血液型はA
國弘正雄
国際商科大学(現・東京国際大学)教授、上智大学・お茶の水女子大学講師、「百万人の英語」講師を務め、1978年からは日本テレビの「ジャストニュース」「きょうの出来事」キャスターを務めた。
東京府立六中(現・東京都立新宿高等学校)に入学するが、父親の転勤により、神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)に転校する。同級生に小松左京と高島忠夫がいた。神戸空襲に遭い、親しくしていた知人の最期を看取った経験から、強い反戦思想を持つようになる。
中学時代、「太平洋の架け橋」となった新渡戸稲造の伝記に感銘を受け、英語の猛勉強を開始した。神戸に進駐していた様々な国籍の兵士に手当たり次第英語で話し掛け、教科書のモデル音読を頼んで発音を自主学習した。後にこの勉強を自著などで語り、ひたすら音読を繰り返したりする「只管朗読」という言葉を英語界に浸透させた。1955年にハワイ大学卒業。
政界入り後は強固な護憲派として活動し、「ミスター護憲」の異名を取ったが、村山内閣発足後は自民党への協力を表明。1995年に落選、政界から引退。現在82歳。
田丸美寿々
広島県高田郡吉田町(当時)出身。埼玉県立川越女子高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。「女性報道キャスターの草分け」、またフジテレビアナウンサーを経てフリーランスに転身して成功、「女性フリーアナウンサーの草分け」でもあり、同時に、略奪結婚で話題となって「不倫女子アナの草分け」ともいわれる。また、また頼近美津子らとともに、「美人女子アナ」といわれる存在の先駆けでもあった。田丸はテレビに出演するほか、自著や翻訳の出版なども多く行っている。
大学卒業後の就職先は三井物産に内定していたものの、好奇心から、親には内緒でフジテレビへも応募した。田丸は当時低迷期にあった同局の就職試験に合格、1975年(昭和50年)に報道局解説放送室付リポーターとして入職した。「重要なニュースは男が読まなければ信頼されない」と思われていた時代、女性アナウンサーの出番は天気予報やお知らせ、街の話題、番組司会者のアシスタントなどだった。天気予報を3年半務めた田丸は念願かない1978年(昭和53年)10月、『FNNニュースレポート6:30』として始まったニュース番組に、同僚の逸見政孝と共にメインキャスターとして抜擢された。略奪婚後、一時は美里美鈴という名前で出演していた。現在はフリーランス。血液型はA
小川光明
日本テレビ系列のプロ野球ナイター中継の実況でお馴染みのアナウンサーだった。
東京都出身。東京都立赤坂高等学校を経て中央大学法学部卒業。同じ日本テレビアナウンサーの吉田填一郎は大学の後輩に当たる。1962年、アナウンサーとして日本テレビに入社。箱根駅伝中継、ゴルフ中継、プロ野球中継などを担当する。2000年に定年退職した後も、契約社員として同局に留任する。2004年5月2日の読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦(東京ドーム)を最後に、42年間の日本テレビアナウンサー歴に終止符を打った。
2006年4月からは日テレ系列のBS日テレの「ボウリング革命 P★League」の実況を務める。日テレ局アナ時代を彷彿とさせる冷静沈着な実況で戦況を伝えており現在の所、全大会の決勝戦を担当している。2008年には「スカイ・Aスタジアム・LIVE RAKUTEN わしづかみ」(東北楽天ゴールデンイーグルス主催試合)の実況を担当した。現在はフリーのスポーツコメンテーターとして活動中。血液型はAB
小川アナの名実況はコチラ
http://www.youtube.com/watch?v=0-Z1l_ZlUsY
浅見源司郎
NTVの巨人戦の実況担当アナ。早稲田大学を卒業後、1962年に日本テレビへ入社。日本テレビ時代には主としてプロ野球を中心としたスポーツ放送担当。1977年9月3日の読売ジャイアンツ(以下、巨人)対ヤクルトスワローズの試合における、鈴木康二朗投手から打った王貞治選手の756号本塁打(当時世界新記録)の実況を担当した(但し、生放送できず)。この他にも実況した名シーンは数多く、以下に挙げる試合にも立ち会っている。1993年にRFラジオ日本へ出向。スポーツ放送からは撤退し早朝番組のキャスターを担当した。現在74歳。
個人的にではあるが、私が小学生だった頃、郡山の開成山球場で巨人戦があり、友人と巨人軍選手の定宿だった「サンルート郡山」の地下道側の玄関で張っていたところ、彼が出てきて、直接サインをもらった想い出がある。ハードボイルド系な顔立ちだったが、人柄は優しい印象だった。
吉田塡一郎
千葉県出身。千葉県立千葉高等学校、中央大学経済学部卒業。
1969年4月にNTVへアナウンサーとして入社。以来、プロ野球とゴルフを中心としたスポーツ中継アナウンサー一筋に活動してきた(スポーツ以外では『笑点』のアナウンサー大喜利に1度参加したことがある)。2003年末に日テレのグループ会社であるRFへ出向し、2004年には『ラジオ日本ジャイアンツナイター』で初めてラジオでのプロ野球実況を担当。同年シーズンオフには冠番組『吉田填一郎の巨人王国』を担当した。また、取締役編成局長も兼任していた。2008年6月の異動で営業局長となり、アナウンス職から離れた。2009年6月より常務取締役。
お亡くなりになった方々
筑紫哲也、逸見政孝、古谷綱正(ニュースコープ)、入江徳郎(ニュースコープ)、田英夫、渡辺謙太郎、頼近美津子らも想い出に残るアナウンサー達だった。生前のご活躍に敬意を表すと共に謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
記事作成:6月下旬~8月4日(日)