震災一か月前の2011年2月に同名タイトル「華麗なる転身」の記事を書いた。あれから3年8か月が経過した。今日は久々にその続編とも呼ぶべき類似した内容としたい。
「世を忍ぶ仮の姿」とか「ビフォーアフター」いう表現がある。宇宙人が地球偵察のため、地球人に変装して忍び込んでいるSFチックのような言葉だったり、イメチェンを図ってガラリ別人のようになっている表現だ。
特に、テレビに登場する芸能人は売れてナンボの世界。女性芸能人にはよくありがちなケースだが、もし売れなくなったらヘアヌード写真集を発売したり、とかく話題作りに余念がない。またスポーツ選手も然り。大抵はスポーツキャスターやコーチ、解説者の道を歩むが、引退後の第二の人生を展望した時に、一般人よりも顔が知れているため、180度違う世界に飛び込む場合がある。例えば、異なるスポーツに首を突っ込んだり、政治家や俳優になるケースまで様々だ。つまり、第一線で華やかな世界を経験してしまうと、なかなか地味な庶民的な生活ができないという証明にもなる。
今日は、第二弾として、前回とは違う方々で、今回のテーマに合う有名人を紹介したい。
1 ジャイアント馬場は、元巨人のピッチャーだった。
高校在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団。長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほどの親友であり、長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。宿舎の風呂場で転倒して左ひじを痛めた為、野球を断念。長身を生かしてプロレスラーに転向した。
1960年4月には日本プロレスへ入団、力道山の元に弟子入り。日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博し、現役時代はNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。
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他にもマッハ文珠やキューティー鈴木も女子プロだった。
2 俳優・赤井英和は、「浪速のロッキー」と呼ばれる最強ボクサーだった。
浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。
プロになってからの赤井は、プロ4戦目の全日本新人王決定戦では尾崎富士雄に3RKO勝ちしジュニアウェルター級全日本新人王を獲得、その後も攻撃型ボクサーとして当時の日本記録であるデビュー以来12試合連続ノックアウト勝ちという快挙を成し遂げ、その試合スタイルから「浪速のロッキー」という愛称が付いた。強打を武器に世界タイトル獲得も時間の問題とまでいわれ、試合後のユニークなインタビューのコメントも人気を呼び、ノンタイトル戦ながら全国中継で取り上げられるまでに注目を集めた。
しかし、2度目の世界タイトルを目指そうとした前哨戦として、1985年2月5日に開かれた大和田正春との試合に臨む。しかし、またも第7ラウンドでのKO負けの後、意識不明に陥る。急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、大阪市内の富永病院で開頭手術が行われた。搬送時生存率20%、手術後生存率50%と極めて重篤な状態であったが、無事に回復(本人曰く、開頭中に意識が回復し、タオルで包まれた自分の脳を触ったという。触ると強烈な吐き気を催したが、その理由が解らず何度も触っては吐き気を催したと証言していた)。回復後はボクサー復帰も視野に入れていたが、医師からボクサーを引退するように勧告を受け、現役を引退する。
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元ボクサーでタレント業に転身したのは、ガッツ石松、輪島功一、具志堅用高がいる。
3 ゴルフ界の大御所・ジャンボ尾崎はプロ野球の選手だった。
元は野球で世間にその名を知られた人物である。高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。
1965年にプロ野球の西鉄ライオンズへ入団。投手として活動していたが、同期入団した池永正明の投球を見た際「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と打者(外野手)に転向。二軍では4番を張るものの、一軍では目立った活躍もなく、1967年12月23日に当時西鉄の監督だった中西太に退団を申し出る。期待した選手の僅か3年での退団申し出に激怒した球団社長から越年で慰留されるも、「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」という尾崎は翻意せず、結局西鉄を退団する。
その後、打撃コーチの花井悠にゴルフ転向を進められ、プロゴルファー転向を決意した。
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4 政治家の橋本聖子は、スピードスケートと自転車のオリンピック選手だった。
スピードスケートおよび自転車競技の元選手でオリンピック日本代表として出場。アルベールビル冬季オリンピックスピードスケート女子1500m銅メダル。2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事。1994年、富士急行株式会社退社。
1995年、第17回参議院議員通常選挙の比例区に自民党から立候補し初当選。国会議員とスポーツ選手の二足のわらじを履き、午前3時に起きて自転車に乗り、昼間に国会議員としての活動をして、夜9時すぎから2時間のウエイトトレーニングという日課を繰り返し、土日の地方講演には自転車で移動をするなどして練習に充てていた。1996年には現職国会議員としてアトランタオリンピックの自転車競技2種目に出場するも、12位と9位に終わる。現役スポーツ選手続行の体力があると自負していたものの、国会議員としてのオリンピック出場が政界とスポーツ界の両方から批判をされたことを理由に「両方の世界を傷つけた」としてスポーツ選手としての現役引退を決意する。
今年、スケートの高橋大輔選手にパーティーで抱き付いたりキスをしたりしてスキャンダルを起こした。
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ほかにスポーツ界から政界への転身を図ったのは、江本孟紀(野球)、萩原健司(スキー複合)、アントニオ猪木、大仁田厚、馳浩、ザ・グレートサスケ(ともにプロレス)らがいる。
5 ショムニでお馴染みの江角マキコは実業団のバレーボール選手だった!
身長170cm。高校卒業後、1985年に日本たばこ産業女子バレーボールチーム(現Vリーグ・JTマーヴェラス)に入団し、バレーボール選手として活躍。当時の実業団選手は午前中は内勤で、江角は所属していた塩販売第2課(大阪市)で勤務後に電車で移動し、午後から茨木工場隣の体育館で深夜まで練習を積んだ。しかし規律や上下関係が厳しい環境でマネージャーと衝突し、出雲まで逃げ帰った事もあったという。そんな中、1987年頃にケガで選手生命を絶たれ、そのまま日本たばこ産業も退社した。その後芸能界を目指しファッションモデルに転身。
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他には角界出身者も、引退後華麗なる転身を図った。力道山(プロレスラー)、龍虎(タレント)、曙(K-1ファイター)、3代目若乃花(アメフト&タレント)などがいる。
また、宝塚から女優への転身は既定路線だが、ここも華麗なる転身と言える。天海祐希、黒木瞳、檀れい、真矢みき、大地真央、映美くらら、真琴つばさ、八千草薫、越路吹雪、浜木綿子、寿美花代、涼風真世、一路真輝、鳳蘭らがいる。
記事作成:10月19日(日)