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Channel: 時遊人SUZUのひとり言
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人気記事再掲⑤

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 来月4月27日で当ブログが終了するのに伴い、もう二度と見られない人気記事を今週は取り上げて行きたいと思います。

 1 3/12(月) 都道府県別血液型分布
 2 3/13(火) イメージがダブる芸能人
 3 3/14(水) 日本にもあった危険なカルト教団
 4  3/15(木) 若くして亡くなった有名人~前編~
 5 3/16(金) 若くして亡くなった有名人~後編~
 6 3/17(土) 2017年春・福島を去ったアナウンサー
 7 3/18(日) 記憶に残るスポーツ名実況

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 本日は昨日と同じテーマである。今日は日本だけでなく外国の有名人も加えてみたい。そして今日は、もちろん集めた訳ではないのだが、不思議にも自ら命を絶った方々が多くなってしまった。若くして亡くなるのは病気ももちろんあるのだが、やはり将来を悲観したり、役者や歌手としての壁にぶつかり、もがき苦しみ、鬱傾向に陥り、衝動的に死を選ぶケース、また、芸能人に多いとされる薬物に依存し、やがては中毒に至り、正当な判断が出来なくなったケース、更には女性に多いのが失恋を苦にしての自殺が多いように思える。私達ファンからすれば、理解しがたいほどの強い衝撃を受けることになるが、同時に後追い自殺ということも決して珍しいことでないのだ。芸能人は文字通りスターであり、光輝く存在であってほしいと常々願っている。では志半ばで散って逝った往年の若きスター達の人生劇場を振り返ってみたい。 

Okadayukiko 岡田有希子(1967年8月22日-1986年4月8日 18歳で没)

 1980年代中期のトップアイドルの一人。ポスト松田聖子として期待され、活躍 していたが、アイドルとしての絶頂期に自殺してしまった。それは衝撃的だった。当時の報道では思いを寄せる俳優にフラれたことがきっかけで(真相は謎だが)、自宅マンションで手首を切り、それでも死に切れず、ガス自殺未遂、更にはその治療直後に所属する四谷の芸能事務所の屋上近くから投身自殺を遂げてしまった。1986年の夕方の番組中、ニュース速報で伝えられ、我が目と耳を疑った。その時、自分は大学3年生で東京(三軒茶屋)に住んでいた。私は彼女のファンではなかったが、人気アイドル歌手の衝撃の急死のニュースはショックだった。もちろん若者にも大きな影響と波紋を与えた。彼女は名古屋市熱田区の出身で、1983年にオーディション番組『スター誕生!』の第46回決戦大会チャンピオンとなり、芸能界入りした。1984年4月に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。「ユッコ」の愛称でファンから慕われた。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』がオリコン初登場1位となる。憧れだった歌手として順風満帆そのものだったのに、あのようなショッキングな自殺をしたことがあまりにも唐突で信じがたい事実だった。その後、後にユッコ・シンドロームと呼ばれることになる、類例のない規模の後追い自殺(ウェルテル効果)が起こり、当時の衆議院文教委員会で取り上げられる大きな社会問題になった。その人数はなんと115人とも言われた。O型。

 当時のニュース映像 https://www.youtube.com/watch?v=NJ968RkzApM

 ワイドショー映像(閲覧注意) https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

Honda 本田美奈子(1967年7月31日-2005年11月6日 38歳没)

 1985年にデビューしたアイドル歌手で、当時は珍しいへそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。代表作は「Temptation(誘惑)」と「1986年のマリリン」だった。1990年代以降は主にミュージカルで活動した。代表作は「ミス・サイゴン」。オーディションでは、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。天使の歌声とまで称された美声で観客を心酔させた。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーにも挑戦した。しかし、2004年末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。本田は翌年1月12日、急性骨髄性白血病との診断を受けて緊急入院、その翌日にはその事実が公表された。その後、2度に渡る化学療法を行ったり、治療として骨髄移植が考慮され、骨髄バンクではドナーが見つからず、同年5月、臍帯血移植を受けた。同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月初旬に再入院し、輸入新薬による抗がん剤治療を受けた。その後、肺への合併症から容態が急変し、同年11年11月6日午前4時38分、家族らの見守るなか、永遠の眠りについた。親友のひとりの南野陽子は、追悼番組で気丈に振舞ったものの、その姿が痛々しく、視聴者の同情を誘った。O型。

http://www.youtube.com/watch?v=pHxE5tpNzbI&feature=related

Kawai 可愛かずみ(1964年7月9日-1997年5月9日 32歳で没)

 彼女の死もまた衝撃的だった。当時交際を噂されていた元ヤクルトスワローズの主力投手だったK選手の自宅マンションの7階から飛び降り非業の死を遂げたのだった。これに至るまでも3回に渡り、リストカットを繰り返していた。彼女は私と同い年だっただけに残念である。彼女に関しての印象はA型らしく生真面目で、精神面が脆く、傷つくと立ち直りが遅い。出演では「ひょうきんベストテン」の中森明菜役や私が大好きだったドラマ「季節はずれの海岸物語」の新井徳子(とっこちゃん)という役柄で鶴太郎がマスターをしていた喫茶店を手伝う役柄を演じ、好評を得ていた。優としての評価は高く、特に悲哀な内容の演技には周囲が絶賛していた。「若手女優でも将来が期待された一人だった」と多くの関係者が語っている。可愛の演技力が増していくことで、晩年のものぐさにも見えるアンニュイな雰囲気を漂わせる役柄の印象が、ありのままの可愛だと思う人が多かった。1992年に実力派女優として認められ、日活80周年記念作品『女猫~美しき復讐者~』の主役に抜擢された。

http://www.youtube.com/watch?v=qrsbkOn_ERs

Okita 沖田浩之(1963年1月7日-1999年3月27日 36歳で没)

 神奈川県川崎市出身の元アイドル、俳優。青山学院大学の夜間部を中退。デビューのきっかけは、1980年代に若者の中で大流行した「たけの子族」のリーダーをして躍って人気を博していたことから芸能人事務所にスカウトされた。TBS系列のテレビドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズの松浦悟役で出演し、人気を博した。1981年には「E気持(イーきもち)」で歌手デビュー、曲がヒットした。また熱狂的ファンの親衛隊も多数結成された 。数ある親衛隊統制による、ステージ用の応援コールとして、「HIROはとってもいい男、今日は絶対チャンピオン、スーパーアイドル沖田浩之G.U.T.SガッツヒーローH.I.R.O.Y.U.K.Iいつでもヒーローチャンピオンゴー」というコールも作られた。その後は歌手、俳優として活躍していた。代表作は映画「私をスキーに連れてって」やVシネマにも出演するなど芸の幅を広げようと必死だった。そして俳優・津川雅彦が代表を務めるグランパパプロダクションに移籍、その後も俳優として堅実な歩みを続けていた。津川からは死ぬまで芸を磨けと叱られてばかりだったという。そして、1999年3月27日に自宅で首吊り自殺を図り死去、その理由は不明である。自殺の原因は当時、仕事が減っていた事に悩んでの自殺ではないかと囁かれた。なお沖田だけでなく、弁護士の祖父、企業経営者であった父(1996年9月)、父の生前から経営を引き継いでいた兄(2002年4月)など、本名である置鮎家は3代で4人の自殺者を出している。A型

Iijima 飯島愛(1972年10月31日-2008年12月17日:死亡推定日36歳で没)

 彼女の人生は数奇で波瀾万丈に満ちていた。AV女優から女優になり、テレビタレント、会社の取締役、そしてベストセラー作家になるなどマルチの才能を発揮した。感情表現がストレートで、歯に衣を着せぬ発言が多いが、不思議と交友関係が広く、友人が多かった。A型の彼女には珍しく、B型の支持者が多かった。中山秀征とはツーカーの仲だったし、あの徳光和夫やバラエティ番組で共演したテリー伊藤も彼女の前では一切の嘘も見透かされるので本音でしか付き合えないと絶賛し、飯島には一目置いていた。1990年代前半、『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタッフととんねるずの木梨憲武が、飯島のビデオのファンであったことから番組にハプニングゲストで出演(これがテレビ番組初出演になる)。2000年、半自伝的な小説『プラトニック・セックス』でリンチ被害、AV出演や性病感染、中絶手術、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っていた。2007年3月3日、芸能界引退の報道が流れる。事務所もこの内容をFAX回答で認めた。生出演した『サンデージャポン』では、この件について、3月いっぱいで引退することを本人が発表した。これは腎臓病が悪化していたから治療に専念したいという意図からであったと推測される。しかし、2008年12月24日、東京都渋谷区にある21階の自室にて死亡しているのが、親戚の女性によって発見された。その後、警察などの調査によって、発見時現在で死後1週間ほど経過していたことが判明した。死亡推定日は発見日から起算して12月17日前後であると考えられた。その後病理検査の結果が警察より発表され、死因は肺炎であったことが判明した。

http://www.youtube.com/watch?v=VnUCOnjZ2t0&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=AYDG9gDQ5ZE&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=6I3zUjECCPE&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=B8CcV6a1d5Q

http://www.youtube.com/watch?v=iKirG9esECg&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=H3V5KY5MrIg&feature=relmfu

Mouri 毛利公子(1960年9月29日-1990年4月7日 29歳で没)

 彼女はご存知女性3人組のポップスグループ「Sugar(シュガー)」のメンバーだった。その代名詞である大ヒット曲「ウェディングベル」は1982年の年間売上13位を記録した。Sugarはこの曲でその年の第33回NHK紅白歌合戦に出場。これが最初で最後の紅白歌合戦出場となった。その中でボーカル、ベース、リーダーを担当していたのがモーリこと毛利公子だった。彼女はSugar解散後、タレントとして活動していたが、第一子の出産直前に、胎児が死亡し老廃物が母体に逆流するという病気のため夭折した。女性として母親になれる手前の幸せの絶頂にあって信じられない最期であった。彼女が天に召されて22年が経過したとは俄かには信じられない。O型

http://www.youtube.com/watch?v=RXpyrX8Q3Gc

Yanagihara 柳原尋美(1979年10月19日1999年7月16日 19歳で没)

 彼女は1999年7月ににデビューした「カントリー娘」という3人組のアイドルユニットの初代メンバー(他に戸田鈴音・小林梓)であった。カントリー娘は以前はハロープロジェクト所属のアイドルグループで、モーニング娘。の妹分として結成された。里田まいやモー娘の石川梨華や紺野あさみ、藤本美貴らも一時期所属していた。しかし「二人の北海道」というファーストシングルをリリースする直前(一週間前)に不幸が起きた。デビュー直前の1999年7月16日に修業と称して、行われていた田中義剛の牧場での作業中に、柳原が交通事故で急死してしまったのだ。その僅か1か月後には小林が心労が祟り脱退。これによりカントリー娘。は戸田1人のみとなってしまった。事故の詳細は次の記事の通り。23日にデビューを控えていた女性3人組新ユニット、カントリー娘。のメンバー柳原尋美さん(19=やなぎはら・ひろみ、本名同じ)が16日、北海道で車を運転中に事故を起こし死亡した。帯広署によると、柳原さんは16日午後5時すぎ、北海道河西郡中札内村の村道を、自ら運転する三菱パジェロで走行中にハンドル操作を誤った。車が右に蛇行したため、慌てて左に切り返したところ車が横転、柳原さんは車外に放り出されて、車の下敷きになったという。救急車で帯広救急救命センターに運ばれたが、午後7時10分、緊張性気胸による急性心不全で死去した。

http://www.youtube.com/watch?v=vy1ADApm1SM

http://www.youtube.com/watch?v=vy1ADApm1SM ←生前の映像はコチラ

Yamada 山田かまち(1960年7月21日-1977年8月10日 17歳で没)

 彼は非業の死を遂げたひとりである。日本の画家・詩人 。死後に遺作となった詩や絵画によって知られるようになった。彼は幼少より類稀な絵画の才能を発揮する。中学3年生の頃からビートルズなどのロックに傾倒。同級生であり後にミュージシャンとして活躍する氷室京介とバンドを組んだこともあった。高校受験に嫌気が差し、16歳の1年を浪人として過ごす。群馬県立高崎高等学校1年生の17歳の時、自宅でエレキギターの練習中に死去。このエレキギターは17歳の誕生日にプレゼントとして贈られたものであった(死因には感電事故、自殺など諸説があるが遺族らの意向により公表されていない。没後、母親が出版した本には「改造したエレキギターの電源コードが原因の感電死」と記されており、一般にはこの説が流布しているが、この本は様々な点で創作箇所があると指摘されている。また本自体もノンフィクションの人物伝として書かれたものではない)。死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画を、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版、一躍注目を集める。個展なども開かれた。これを機に、1992年に高崎市片岡町に「山田かまち水彩デッサン美術館」が設立された。残された詩、デッサンに対する評価は定まっていないが、一部マスコミによる「夭折した天才」という偶像化には批判の声も多い。彼の生きざまは教科書の題材にもなった。

James ジェームズ・ディーン(1931年2月8日-1955年9月30日 24歳で没)

彼はインディアナ州マリオンで生まれる。ジェームズが9歳の時母親のミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。高校時代から演劇に興味をもち、UCLAの演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。「底抜け艦隊」等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年には代表作『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し同作のジェット役を演じることをジェームズは乗り気ではなかったようである。しかし、 ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ550スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった。ジェームズは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにし、そしてその死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。スターダムにのし上がって半年足らずというあまりにも短いキャリアと突然の死、それに公開葬儀がジェームズを時代を超えた青春の象徴とした。日本では赤木圭一郎が彼と同じようにして急逝したことから「和製ジェームズディーン」と呼ばれている。

Jimi ジミ・ヘンドリックス(1942年11月27日-1970年9月18日 27歳で没)

 天才ギタリストとして多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。ロックミュージックのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを歯や背中で弾いたり、火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスでも有名。『ローリングストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト』において第1位に選ばれている。その他にもブラジルのメタル専門誌『ROADIE CREW』で2008年5月に行った「HR/HM系ミュージシャンの選ぶギタリスト・ランキング」、『ギターマガジン』2010年12月号の「ギター・マガジンが選ぶ! 史上最も偉大なギタリスト100人」でも第1位に選ばれている。「ジミヘン」の愛称で日本でもカリスマ的存在である。しかし、1970年に彼は謎の死を遂げた。9月18日未明(深夜から早朝)、モニカ・ダンネマンという女性と二人でロンドンのホテルに滞在中に急逝したのだ。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。死亡原因としては、睡眠前に飲酒しながらバルビツール酸系睡眠薬を併用したことによる中毒、及び睡眠中に嘔吐したことによる窒息死とされる。「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、現在では否定されている。

 他にもZARDの美人ボーカルだった坂井泉水さんやニック・ドレイクもいる。しかし、坂井さんについては以前に当ブログで「我が永遠なる歌姫」と題して追悼記事を掲載したし、英国のシンガソングライターだったニックドレイクは、フォークの分野で活躍して26歳という若さで亡くなっている。原因は鬱病を患っていた彼が抗鬱剤の過剰服用したことであったようだが、詳しくはここでは述べないようにしたい。さて、昨日と今日の2日間に渡ってお送りした「若くして亡くなった有名人」、どうだったでしょうか。昔の彼等の活躍を思い起こし、懐かしんで貰えたでしょうか。そして彼等の残した確かな足跡や功績を後世に伝えて行きたいものである。彼等はいずれも「太く短く生きた」面々であろう。人生は長さではなく、その濃さであるという人もいる。この世に生きた証として何を残すのか、それがわかれば、いつ死んでも悔いはないだろう。ただ不自由な体と満たされぬ心で生きながらえるよりも、彼等のように、死んでなお、人々の記憶から離れず、いつまでも愛され続ける人でありたいものである。

 記事作成:2011年1/19(水)

 追記

 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」三代目の主役で、「仮面ライダー響鬼」にも出演されていた神戸みゆきさん(24歳で没)やNHK「どんな問題Qテレビ」のお姉さん役で活躍し、アイドル歌手としてもデビューしながら、アメリカで不慮の交通事故で、僅か19歳で命を落とした志賀真理子、モデルやタレントとして売れっ子だった上原美優さん(24歳で没)も若くして惜しまれながら亡くなった方々だ。もし続編を執筆する機会があれば、そこで改めて紹介したい。

 11月24日(金)にアップした「若くして亡くなった有名人~続編~」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-67df.html

おことわり

 本記事は、著作権および故人の名誉に関わる記載が多分に含まれているため、自主規制により公開日、時間を限定してお送りしていますことをご了承願います。


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