かつてドラフトで有力選手をことごとく指名したのは黄金の左手と呼ばれたオーナーがいたヤクルトと日本ハムだった。前者は、荒木大輔や伊藤智仁、伊東昭光の指名で強いくじ運を発揮したし、日本ハムも木田やダルビッシュ、斎藤佑樹などのドラ1を獲得してきた。
しかし近年、選手の意向を汲まず、それを無視して強行指名するのは日本ハムの専売特許だ。過去何度こうした暴挙を繰り広げたかしれない。横やりや妨害も常套手段で、こうした球団に選手を指名する権利はなく、はく奪した方がいいのではないかとさえ思う。12球団の選手均衡を目指して平和裏に行われるようになったドラフト制度で、その規定を一方的に破る、いわゆる掟破りの暴挙を重ねて来た。
今月下旬にドラフトを控える時期にあたり、その傍若無人ばりの身勝手な振る舞いを挙げ、警鐘を鳴らしたい。
1 木田 勇
1978年日本鋼管のエースに成長、都市対抗では3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが本田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘(崇徳-亜大)と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した。
同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否。一般には大洋入りを強く希望したためと報じられているが実際は在京セ・リーグであればどの球団でも応じるつもりであった。その理由として父親が胃癌、母親が胆石を患っており「長男として両親の面倒をしっかり見なくてはならない」という思いがあったからだという。両親からは「おまえの希望する道に行っていいんだよ」との言葉を貰っており、本人もドラフト1位指名を名誉には思ったが先述の理由でどうしても横浜を離れる気にはなれなかった、と語っている。なお広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。
翌年の都市対抗でも活躍し、1979年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した。日本ハムがクジを当てた時に「俺は運の無い男だ」とボヤき、入団交渉にあたって条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。しかしこれは大社義規オーナーの「プロの選手なら自分で稼ぎなさい」の説得で断念した。
この思い上がりが対戦チームの怒りを買い、ルーキーイヤーこそ投手としての賞を総なめする活躍をしたが、その後は鳴かず飛ばずだった。プロ11年で60勝(71敗)止まりだった。1年目が22勝8敗だから、2年目以降は10年間で38勝(63敗)という散々な成績に終わった。
2 須永英輝の場合
浦和学院で1年時の夏にメンバー入りし2学年上の大竹寛の引退後、1年秋からエースを務めた。甲子園通算63奪三振。高校時代は、135~145km/h台の速球に、キレのある変化球で空振りを取るスタイルであった。打撃のセンスもあり、一時は浦和学院打線のクリーンアップを担った。2003年のプロ野球ドラフト会議前には、巨人入りを熱望。巨人以外に指名された場合は社会人野球に進むと表明していたが、当日の会議で日本ハムが2巡目で強行指名。当日の会見ではプロ入り拒否の姿勢も見せ、直後の指名あいさつも拒否したが、2週間悩んだ末に北海道日本ハムファイターズへの入団に合意した。
しかし、育成が下手くそな日本ハムでその才能を発揮できず、B級選手としてその選手生命を閉じた。通算8年で1勝(3敗)も挙げられなかった。
2 陽岱鋼の場合
2005年10月3日の高校生ドラフト会議で、北海道日本ハムファイターズと福岡ソフトバンクホークスの1巡目で競合し、抽選の結果日本ハムが交渉権を得たが、同会議では一旦は「交渉権獲得球団は福岡ソフトバンク」と発表されてしまい混乱が起こった。兄の陽耀勲と同じソフトバンク入りを熱望していたが、日本ハム側の熱烈な交渉と、本人が初めて北海道を訪れてみるなどの経緯もあって、最終的に日本ハム入りを決意。台湾人史上最高位の指名(ドラフト1巡目)を受け、台湾では話題となった。
3 木下達生の場合
少年時代から大の中日ドラゴンズファンで、特に川上憲伸のファンであった。リトルリーグ時代は自ら希望して川上と同じ背番号11をつけた。中京大中京高校のセレクションを受けるも不合格となり、東邦高校に一般入部。2年生となった2004年春に1学年上の岩田慎司の控え投手として第76回選抜高等学校野球大会に出場も登板無し。3年生となった2005年春にはエースとして水野祐希とバッテリーを組み、第77回選抜高等学校野球大会でチームをベスト8に導いた。同年秋の高校生ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに3巡目で指名された。事前に日本ハム側から指名挨拶が無かったことと、自身が地元で大ファンであった中日入りを希望していたことで入団交渉は難航したが、最終的には日本ハム側の熱意が通じ合意する形となった。
結局は育て方が悪く、その才能を開花させることができず、日本ハムは2年でお払い箱に。通算3年で2勝1敗で引退を余儀なくされた。
4 長野久義の場合
O型の彼は、江川や元木と同じく熱烈な巨人信者。巨人以外の指名をことごとく蹴って社会人HONDAで長らく活躍したスラッガーだった。
2006年に日本大学4年生の時に急成長し、春季は12試合出場、打率.489(47打数23安打)、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404(52打数21安打)で1995年秋・1996年春と2季連続首位打者となり、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなった。同年秋の日米大学野球選手権、IBAFインターコンチネンタルカップ、2006年アジア競技大会に日本代表として出場。東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。
同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、読売ジャイアンツへの入団を熱望していたことから入団を拒否。社会人へ進んだ。
5 斎藤佑樹の場合
早実時代、あの田中将大と投げ合い、決勝でも決着がつかず、引き分け再試合でも一人で投げ抜き、甲子園のスターとなったハンカチ王子こと斎藤佑樹。彼は早稲田に進学して神宮の星を目指した。しかし、プロに入ってからは鳴かず飛ばずで5年が過ぎ、もう30歳を目前にし、ピークは過ぎた。彼の入団時のドラフトはこうだった。
大学4年間を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成(31勝323奪三振)。また世界大学野球選手権大会と日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出されたのは史上初。
2010年10月28日に開催されたプロ野球ドラフト会議にて、東京ヤクルトスワローズ、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークスの4球団が1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得。同会議では早稲田大学の同期生である大石達也と福井優也も、それぞれ埼玉西武ライオンズと広島東洋カープに1位で指名され(大石は広島を含む他5球団との競合)。
10月30日から早慶戦を控えていたため当日には記者会見は行われず、早慶優勝決定戦翌日の11月4日に大石、福井とともに会見が開かれ、プロ入りへの意気込みを語った。12月6日に日本ハムとの初交渉に臨み、新人としては最高評価の年俸1500万円、契約金1億円、出来高5000万円(金額は推定)で仮契約した。12月9日には日本ハムの本拠地・札幌ドームにおいて、2003年の新庄剛志以来7年ぶりの単独の入団会見が行われた。会見には監督の梨田昌孝と球団社長の藤井純一が同席し、背番号「18」のユニフォーム姿をお披露目した。
6 菅野智之の場合
巨人、原監督の甥っ子という血筋家系で、巨人以外なら入団を拒否すると表明している中、栗山監督は彼を強行指名した。もちろん結果は拒否。有能な球界の宝になり得る逸材を一年棒に振り、浪人生活を余儀なくさせた。後に栗山監督は本人と原監督に謝罪する一幕もあった。喉から手が出るほど欲しい逸材に違いないが、本人の頑なな意向を無視しての強行指名に、多くのファン、球団関係者の怒りを買ったのは言うまでもない。
7 大谷翔平の場合
菅野の1位指名をしくじった栗山監督はその翌年もやらかした。岩手・花巻東の長身エースでマックス160km/hをマークした超高校級投手の大谷を強行指名した。彼は早期からNPBには入団せず、メジャー行きを熱望し、表明していた。どの球団も欲しい即戦力だったが、本人の意向を尊重し、指名を見送った。しかし、栗山監督はまたしても掟破りの暴挙を決行した。
そして独自の野球理論や前代未聞、球界初の二刀流への対応&育成プランを提示し、MLBでメジャーに這い上がるのはシビアと説き伏せ、莫大な裏金をつぎ込んで、無理やり入団s成せた。おそらくは8年後のFAでのMLB行くを待たずして、5年程度で日本球界で「○○勝」を挙げた時点でメジャー行きを認めるという特別条項が契約の中に密かに盛り込まれていたもとの想像できる。
日本ハムが許せないのは、球界の宝であり、WBCなどでも対戦相手をきりきり舞いさせるなど世界で活躍できる彼が絶好調では手放さず、脚を故障し、出番が減った途端に使い捨ての如く、ポスティングでのメジャー行きを認めた手法だ。あざといし、選手をぞんざいに扱いすごだ。
8 山口裕次郎の場合
日ハムにドラフト6位指名された履正社の左腕、山口裕次郎投手が入団拒否の姿勢を示していることが波紋を広げている。複数メディアの報道によると、山口サイドは、事前に調査書を出してきたプロ球団に対して「4位以下の指名では社会人(JR東日本)へ進むので指名を遠慮してもらいたい」という意向を伝えていたというが、日ハムは、山口サイドの意向を無視して6位で強行指名。山口本人も、学校側も、日ハムの強引なやり口に大きな戸惑いを示した。翌日に、日ハムの大渕スカウトディレクター、木田GM補佐、芝草スカウトが同校を指名挨拶に訪れたが、本人は同席しなかった。
当然、この暴挙に山口本人は怒り心頭で契約交渉自体を拒否し、JR東日本へ進んだ。
選手の心情を逆なでし、暗黙のルールを無視してまで裏技の如く、強行指名を重ねている日本ハム球団の資質はイカれている。どれだけ選手は傷つくか全く掌握していない。そしてどれだけの不信感を抱くか計り知れない。
当然、プロは実力勝負の世界。どのチームに入っても「自分が強くしてそのチームを優勝に導いてやる」くらいの気概は必要。しかし、かつて横浜の内川、村田やヤクルトバレンティンが言うように、野球は一人でできるものではない。「来季は優勝を狙えるチームで活躍したい」とFAしたケースはごまんとある。
プロ野球の球団に入団したいなら、FAがある以上、どの球団に入団しても実力で這い上がれる世界とはいえ、菅野のように毎回2点程度に抑えても、味方打線が打てなくて9勝止まりで終わった例もある。行きたくない球団に指名されてモチベーションが低い状態で嫌いな球団に行っても頑張りきれないというのが本音だろう。小さい頃に憧れていた球団に入ってこそ、野球に専念できるのではないか?
かつてのように、巨人人気はもう過去の時代。戦力の均衡と言うが、今は交流戦でも証明できるように、パ・リーグのほうが断然強い。もうドラフトの意味もなさない。阪神や広島に入りたい球児は多いし、かつては金に物を言わせて実力選手を買いあさった西武のようなチーム方針もない。育成が下手くそな巨人や日本ハムに入るよりも、出場機会を与えて貰える弱小球団の方が、自分の出番も増えてアピールできる気がする。
さて、今年は清宮内野手や中村捕手など高校生に大物がいる。一体どこが指名するのか、そして日本ハムは誰を強行指名するのか見ものだ。
最後に、来季の日本ハムは栗山監督正念場だ。昨年日本一の面影もなく、今年はBクラスで甘んじた。追い討ちをかけるように大谷のポスティングでのメジャー移籍、主力4人(中田・増井・宮西・大野)がFA宣言する方針を固めた。斎藤佑樹ももう後がない。一気に若返りを期すチーム方針だが、ベテランが大勢移籍となると、若手が芽を出すのは数年かかる。下手すると、シーズン半ばで栗山監督の休養ということもありえる。球界きっての頭脳派監督だけに、それはもったいない話だ。ともあれ、日本ハムの動向から目が離せない。
記事作成:10月7日(土)