郡山はその昔、奥羽街道の宿場町として栄えていた。故に、歴史に名を轟かせる有名な偉人たちの足跡が残る土地柄でもある。それには、真偽のほどは定かでないものの、神話に等しいような歴史上の人物の言い伝えや伝説めいた話が幾つある。念のため断っておくが、私は郷土研究家でもないし、まして歴史愛好家でもない。ただのもの好きが高じた好奇心オヤジである。
初回の松尾芭蕉に続く第2回目の今日は、鎌倉時代に、愛する源義経を追って奥州路を旅し、悲劇のヒロインとしての末路をたどった、かの有名な「絶世の美女」と誉れ高い「静御前」に纏わる逸話である。信じる信じまいは受け手の勝手だが、ここ郡山に遺る、古くからの伝記を紐解いてみよう。
まずは、静御前の生涯について振り返りたい。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな 生没年不詳。平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。
静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。
この伝記を知り、 私がそこを興味半分に訪ねたのは、この夏のことだった。チョイ旅の道すがら、8月17日(土)に静御前堂を、そして8月24日には、彼女が命果てた場所としての伝承話が残る美女池を歴訪したのだった。
静御前堂(H25.8/17訪問)
案内板によると「静御前堂は里人が静御前の短い命をあわれみ、その霊を祭ったのがこの堂であると言い伝えられています。静御前は、平家滅亡後、頼朝に追われて奥州の藤原秀衡のもとに下った義経を慕い北に向かい、この地までたどりつきましたが、すでに義経は平泉にたったと聞きとほうにくれてついに池に身を投じたという言い伝えがあります。かつぎを捨てた所が「かつぎ沼」(大槻町南原地内)、身を投じた池が「美女池」(大槻町太田地内)であると伝えられています。また、静御前は乳母と下僕の小六を共にして来ました。小六の碑もここに残っています。小六の碑があるのは、全国の静御前遺跡の中でも例が無く珍しいものです。 郡山市観光協会 」とあります。静御前堂は三間四面の宝形造り、鉄板葺きの建物で一間の向拝が設えられ天明年間(1781~89)に造営したとされます。床下には石造塔婆が安置されていて郡山指定重要文化財に指定されています。背後には古墳時代後期につくられた針生古墳があり郡山指定史跡となっています。
美女池(H25.8/24訪問)
美女池は静御前伝説の残るところである。源義経の奥州下りの跡を慕い、従者小六、乳母のさいはらとともにこの地までやって来た静御前が、小六の死と平泉までのあまりに遠い道のりへの落胆から、乳母のさいはらと共にこの池に身を投じたとされている。それにちなんで毎年3月28日、郡山市では御霊を祀る「静御前堂」で例大祭を行なっている。
また、美女池から東北自動車道を挟んだ西側」(大槻町南原地内)には「かつぎ沼」があり、ここで静御前がかつぎものを捨てたという言い伝えが残っている。
<関連ブログ>
http://homepage2.nifty.com/Tetsutaro/Top/Hyoshi-Shiseki/Shiseki01.html
さて、これらの伝説はの真偽は不明だが、このような話が残るからには、根も葉もないようなでたらめではなく、何かしらの証拠に値するような痕跡があって、それを確証として後世に伝わっているからだろう。確かに義経や静御前に纏わる伝説は、日本全国に存在する。一説には平泉で討たれたとする義経の死亡説が有力だが、それは影武者で、義経自身は蝦夷地に逃げ延び、その後、大陸に渡ってモンゴルのチンギスハンになったという北記行説まである。当の静御前も、様々な憶測が多様な伝記を生み、そこかしこに伝説として伝わっているのも事実。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。墓もまた兵庫県淡路市、埼玉県久喜市、新潟県栃尾市などに存在する。
様々な憶測を呼び、伝承されてきた静御前の末路はいかがなものだったのだろうか。追っ手から逃れる身であった義経が、命からがら当地を訪れ、駆け抜けるように縦断したのは揺るぎない事実だし、その愛する義経を追って、奥州路を旅したのもまたありえる話だ。いずれにしても、歴史の重要人物であるこのふたりが、郡山に足跡を遺した事実を正史として考えたいのは、郡山市民共通の願いであろう。これを研究したり、彼らの足跡に触れることで、壮大な歴史絵巻に思いを馳せ、古の偉人たちに畏敬の念を払う機会を得られるのである。郡山に義経と静御前あり。それは900年の時を越えて辿り着いた、現代の歴史浪曼を掻き立てる格好の材料になり得るものである。
記事作成:9月1日(日)