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Channel: 時遊人SUZUのひとり言
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プロ野球・天国と地獄編

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 人生、良いときもあれば悪いときもある。これを人は、山あり谷ありと表現することがある。まるで天中殺のような不思議なバイオリズムによって、運命が翻弄されているかのように映る。特にスポーツ界においてその傾向は顕著に見られる。傍から見ていても浮き沈みの激しい人生だと思う。前年最多勝に輝いた投手でも、翌年は絶不調に陥ったり、怪我や故障に泣き、シーズンを棒に振ることもしばしばだ。今日は、そんな天国と地獄を味わったプロ野球選手たちにスポットを当てたい。

 天国→地獄

 前年優勝から最下位になった球団

大洋   1960年優勝→1961年最下位
ヤクルト 1978年優勝→1979年最下位
楽天   2013年優勝→2014年最下位 24連勝の田中将大がメジャー挑戦で移籍

 地獄→天国

 前年最下位から翌年優勝した球団

大洋  1959年最下位→1960年優勝 三原監督
広島  1974年最下位→1975年優勝 赤ヘル旋風 古葉監督 
巨人  1975年最下位→1976年優勝 長嶋監督 日本ハムより張本をトレード獲得
近鉄  2000年最下位→2001年優勝 梨田監督 ミラクル近鉄優勝
ヤクルト2014年最下位→2015年優勝 真中監督 山田・畠山・石川・小川・バーネット

 個人で天国から地獄を味わった選手(死球で離脱、怪我、不振、追放、解雇)

 田淵幸一・・・とにかく死球が多いことで有名だった。

1968年のドラフト1位で阪神入団後は、強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として初めての新人王を受賞した。しかし、2年目の1970年8月26日の対広島戦で、外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒。耳からは血が流れており、すぐさま救急車で病院に搬送された。この怪我は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われる程大きなもので、翌年まで尾を引いた。

 1978年オフ、クラウンライターライオンズから生まれ変わったばかりの西武ライオンズにトレードされる。阪神から田淵・古沢憲司の2人、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人という大型トレードであった。西武で体を鍛え直し、1980年ニ一塁手に転向、指名打者でも活躍した。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・1983年には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1983年にはシーズン中盤まで本塁打30本と独走。セ・パ両リーグ本塁打王は確実かと思われたが、7月に近鉄の柳田豊に死球を受け左手骨折、夢を砕かれた。1984年限りで現役引退。

 通算死球は128個だった。これは歴代9位。1位は清原の196個。王は114個の14位なので避けるのが上手かったし、敬遠で勝負して貰えなかった。

 個人で地獄から天国を味わった選手→カムバック賞・・・・病気や怪我からの復帰

 1974年の賞制定から2013年まで40年近い間に、31人が受賞した。その中でも記憶に残る選手を取り上げたい。

 津田恒実(1986年)

 1年目の1982年に先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝いた。しかし2年目の後半戦以降は、ルーズショルダーや中指の血行障害などに悩まされ、登板機会が激減する。その後、血行障害を治すため、世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。1985年に「恒美」から「恒実」へと改名。1986年に抑え投手として復活し、前半戦を防御率0点台で折り返す。後半戦からは調子を落としたものの、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献、シーズン終了後にカムバック賞を獲得した。

 吉村禎章(1990年)

 1988年7月6日の対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)では、3回に通算100号本塁打を記録した。ところが、8回の左翼手としての守備で中尾孝義の放った飛球を捕球した際、この回から中堅手の守備に入った栄村忠広と激突。左膝の4本の靱帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷するという、主治医曰く「交通事故レベル」という大怪我を負った。
 左膝靭帯断裂は重度の障害者認定を受けるほどの大怪我であり、一旦北海道大学付属病院に入院したが、当時の日本の医療レベルでは手に負えるものではなく、渡米し、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀を受けた。リハビリで使用したギプスはジャイアンツの選手寮に飾られている。2度の手術と神奈川リハビリテーション病院にて1年以上の苦しいリハビリ生活を経て、最終的には特注品のレガースとシューズを付け、直線であれば100メートルを11秒台前半で走れるまでに復活した。

 1989年9月2日に斎藤雅樹の代打で復帰(当時ルーキーの川崎憲次郎と対戦し、結果は二塁ゴロ)。「バッター、斎藤に代わりまして吉村」というアナウンスがかき消されたほどの大歓声に東京ドームが包まれた。

 小久保裕紀(2004年)

 2003年、同年3月6日のオープン戦(対西武ライオンズ戦)でホーム生還時スライディングの体勢で椎木匠と交錯し、右膝の前十字靭帯断裂・内側靭帯損傷・外側半月板損傷・脛骨と大腿骨挫傷という重傷を負う。そのまま退場し、完治まで最低6ヶ月と診断されたことでアリゾナ州のリハビリ施設でトレーニングに励んだ。
 2003年のシーズン終了後、多くのファンから来季の復活を期待されていたが、突如読売ジャイアンツへ前代未聞の無償トレードで移籍することが発表された。
 2004年、シーズン後半にはアテネ五輪で離脱した高橋由伸に代わって巨人軍第69代4番に座り、長嶋茂雄、原辰徳、落合博満、清原和博らも達成できなかった巨人の右打者としては史上初のシーズン40本塁打以上(41本塁打)を達成し、この賞を受賞した。

 私個人的には、近鉄のこの選手を外せない。なぜカムバック賞が貰えないのか不思議だ。

 盛田幸妃 

 1998年に横浜から近鉄へ移籍後は、リリーフ専任に戻り開幕から好投していたが、5月末頃から右足首の違和感や麻痺などが起こり次第に状態が悪化、8月13日に一軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板できるようになり、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。
 2001年に34試合に登板、2勝を挙げ、近鉄の12年振りのリーグ優勝に貢献。オールスターゲームにも中継ぎ投手部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞。

 

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 あとひとりでノーヒットノーランを二度逃がした投手

 西口文也(西武)

2002年8月26日、対千葉ロッテマリーンズ戦(西武ドーム)
福浦和也の四球による出塁1つに抑えて9回2死までノーヒットノーランだったが、小坂誠に中前打されて逃した。次のサブローにも右前打されたが後続を抑えて2安打1四球、6-0の完封勝ち。
2005年5月13日、対読売ジャイアンツ戦(インボイスSEIBUドーム)
清原和博の死球による出塁1つに抑えて9回2死までノーヒットノーランだったが、清水隆行にスライダーを右翼席に本塁打されて快挙を逃した。1安打1死球、6-1の完投勝ち。清水を抑えて達成していたら交流戦初、西武ドーム初の達成者だった(のちにリック・ガトームソンが、日本人では杉内俊哉が交流戦初の達成者となった。ちなみに、清水とは2009年の1年間だけチームメイトになっている)。

 西口投手の悲劇はこれだけでは終わらない。もっと残念なことに、ノーヒットを続けながら、味方の援護がなく、延長戦まで記録を続けたのに、結局引き分けに終わったため、認定されなかった。それが下記の試合。

2005年8月27日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(インボイスSEIBUドーム)
9回終了まで完全に抑えていたものの、この試合で投げ合った一場靖弘の178球の力投の前に打線が沈黙し、延長戦に突入した。延長10回表、沖原佳典に安打を打たれて快挙を逃した。このような形で延長戦で完全試合を逃したのは史上初、ノーヒットノーランでは9人目。
その後は後続を抑えて、石井義人の適時打で勝利したため、結果は10回1安打1四球、1-0の完封勝ちとなった。仮にパーフェクトピッチングを続け、西武の打線の援護でサヨナラゲームを決めれば、1973年8月30日に江夏豊が中日ドラゴンズ戦で達成して以来の2度目の延長戦ノーヒットノーラン、延長戦完全試合は史上初の達成となるところだった。この試合は完全試合の参考記録とされている。

  最後に、総集編として劇的な復活を遂げた選手を紹介し、結びとしたい。

 記事作成:5月22日(金)~9月29日(火)


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