このテーマの記事は、実に1年2ヶ月ぶりで、実に9回目となった。これまで様々な地元密着の話題を提供し、昔を回顧し、懐かしんでいただいてきた。本日は、以前にも似たような記事を書いてはいるが、その続編で、「郡山の今昔物語」を写真で振り返っていきたい。では、早速話を進めたい。
明治生まれの祖父が亡くなって9年余り、彼が遺した写真や郡山市の昔を物語る資料が、生前使用していた書斎からわんさか出てきた。戦時中の様子や出征兵を見送るものから郡山の歴史を映し出したまで多種多彩あった。「郡山・田村写真集」の編集部が見たら、泣いて喜びそうなものばかりだ。しかし、当時の面影を偲ぶ一級資料であると同時に、故人の方々の姿や当時の服装や町並みの様子が数多く映し出されており、個人情報保護が厳しく叫ばれる今、果たして掲載して良いものかどうか不明のため、今回は差し障りのないものをセレクトして、ほんの一部をここで紹介したい。本日は、私が生まれた直後の昭和40年前後に撮影されたものを取り上げたい。
1 旧郡山郵便局(本町)
この写真は、左に大東相互銀行とその南西側を見下ろしたもの。よく見ると中央に横長に見える大きい建物は、実は朝日町に移転する前の郡山郵便局(本局)。その右手にはイトーヨーカドーが入っていたビルが見える。昭和50年頃、イトーヨーカードーは、「郡山ビューホテル」の東の向かい側にあった。薄ら覚えだが、2階建てくらいだったと思う。何せ昭和40年代の私が生まれた頃は、さくら通りが未舗装、西部自動車学校があった現在のイトーヨーカドー&ゼビオスポーツ前のうねめ通りは軍用道路と呼ばれ、とんでもない砂利道だった。そしてさくら通りと49号線の交差点から西側は道路は無く、田んぼしか無かった。自衛隊は町外れの田舎に佇んでいた。
下の白黒写真は、昭和41年ごろの郡山駅方面から開成山方面を望む
2 昭和30年代後期の国道4号線(富久山町八山田付近)
これは富久山町の国道4号線沿いを撮影したもの。「郡山・田村の100年」の写真集には49号線として紹介されているが、それは誤りで、これはれっきとした4号線。それが証拠に、真ん中の右側に、警察の検問所の建屋がある。これはかつてダイマツボウル(現在アピア)の前にあったもので、そこから北側の上り坂を撮影したものだ。坂の途中の右側には、現在「岩瀬書店」があり、日和田入り口の「ホテル万松」付近の松林を望むもので、49号線の安子が島付近の通称ジェットコースター道路と見間違えたようだが、そこにはこうした検問所など無い。
3 市内本町付近から市街地を望む
画像の中央やや上にある、屋上に展望台らしきものが見える大きなビルは「第2うすい」だ。その右側には津野デパートもある。昭和40年頃の写真で、この頃にカラー画像が残っているのは珍しい。
4 開成山公園にあった鳥類園
現在、開成山公園内の五十鈴湖にかかる赤い橋、その北側一円にあった大きな鉄かご状の檻が「鳥類園」。私は3歳くらいの頃(昭和42年)に今は亡き祖父に連れられて来た。記憶にはないが、ちゃっかり写真が残っていた。市民の憩いのスペースだったようだ。もちろんその後、老朽化と安全対策のために撤去され、代わって北東側にバラ園が創設され、開園した。開成山公園は桜の名所としても知られ、さくら通り沿いの土手の上は、仲里依紗が主演した、映画「時をかける少女」のロケ地として有名。あまりにも広大な公園に、訪れた方々は一様に驚くことだろう。平成10年代までは真夏の祭典として花火大会が行われる会場だった。今はその場所を、郡山南IC近くの「カルチャーパーク」に移してしまった。
5 郡山駅前の朝の風景
昭和40年頃に撮影した西口駅前の様子。雑然としていて、バスプールとタクシーの待合いスペースが混在していた。この状況は駅前が整備される平成10年頃まで続いた。
郡山駅前の昔の写真
私は駅周辺が庭のようなものなので、郡山駅の駅舎はもちろん、西口の駅前の変遷はすべて承知している。今は亡き父親とこの改札を潜り、7時49分発の「ひばり1号」に乗って何度、東京旅行に出発したかしれない。駅前のロータリーにあった白い親子像も覚えている。細長い円状の白色のモニュメントもあったが、駅前開発で撤去され、一時、旧星総合病院の前に移設されたが、その後、どこに行ったのかはわからない。また、駅前大通りに架っていた巨大アーチと中央分離帯の植え込みは今でも覚えている。うねめ祭りのシーズンになると、ここに赤い提灯が鮮やかに並んだ。ところで、小学校の時は、よく放課後に友人と何度も駅前周辺に遊びに出向いたものだ。山の井、うすい、丸光は、昭和40年代には子供の遊び場だった。アーケードも賑わっていた。アーケード内でヤクザの抗争による拳銃発砲事件があって、「東北のシカゴ」などというレッテルを貼られたのもこの頃だ。
また、住んでいた方には申し訳ないが、駅の東側は、工場群と火葬場しかなかった印象。こちらは「ザイ」と呼ばれていた。
6 第2うすいの店内の様子
昭和40年代に、郡山市内にあった百貨店といえば「うすい」と駅前通りに鎮座していた「丸光デパート」、そして4号線の北東角地にあった「津野百貨店(デパート)」だった。その中で、老舗の「うすい」は県内初のエレベータを備え、7階にはレストランがあった。母親と買い物に訪れ、ここでお子様ランチを食べるのが楽しみだった。エレベーターは中町通り側(北西側)と一番奥の南東側に2機あった。エスカレーターは片方向ずつだけで、上の階に上るには、いったんそのフロアの売り場を回って乗らなければならず、階が上がるにつれてエレベーターの幅も狭くなっていた。そしてエスカレーターは5階までしかなかった。フロアの床は木目調だったし、箪笥の消臭剤のような独特の匂いがした。5階くらいに本屋があって、その一角に切手を売るコーナーがあった。丸光もうすいも地下に食品売り場があって、ラーメンや試食コーナーで友人とたむろしていた。また、丸光の6階のおもちゃ売り場や屋上の遊園地も遊び場だった。
トミヤ百貨店の観覧車と丸光デパートの屋上遊園地
人物が写っているため、縮小して掲載しました。
7 郡山公会堂と図書館、児童文化会館、市民会館
麓山に今も聳える郡山市公会堂。スペインの世界遺産、コルドバ大聖堂にそっくり。今も現役で、催し物が開かれる。何を隠そう、私の亡き祖母の葬儀告別式はここで行った。その隣には巨大な公民館があったが、東日本大震災で壊滅的な被害を受け、取り壊され、現在再建設中。この公会堂の東側にあった2階建ての細長い建物は、かつての郡山図書館。今は「こども図書館」として使われている。ここが手狭となって道路を挟んだ向かい側の麓山公園の角地に移転した。移転先には児童文化会館(右側の写真)があった。2階建てで、工作展示室を隣りに併設していた。また、天体観測ができる銀色のドームも兼ね備え、2階部分には、宇宙科学気分を満喫できる、電動可動式の月面模型やロケットオブジェなどが並んでいた。しかし、ここも内環状線沿いの開成に移転した。未だに「白雪姫と七人の小人像」の破壊事件が記憶に残っている。心無い何者かがその像を損壊したのだが、おそらくその犯人は今も捕まっていないはず。子供の夢を壊す許しがたい事件だった。
8 平屋が並ぶ旧希望ヶ丘団地
私の亡き祖父母は晩年に希望ヶ丘団地の先の大徳という場所に居を構えていたため、時々前を通った場所。現在は高層団地と化したが、昭和50年代までは、百軒長屋のように戸別の一軒家が所狭しと立ち並んでいた。写真の手前は希望ヶ丘幼稚園。その前の三叉路は時差式信号だった。今は無くなったアーデンにはよく買い物に行った。多種多彩な店が商店街のように立ち並んでいた。ちょうど駅前にあった「山乃井」のように。また、小山田方面に行く通りには来来亭(らいらいてい)という美味しい中華料理屋と先崎内科胃腸科医院があった。
9 郡山消防署と併設していた郡山警察署(国道4号線沿い)
4号線沿いの堂前&清水台の付近にあった警察署。かつてはここがメインの警察署で、南側に火の見やぐらを備えた消防署があった。その裏手は金透小学校。四角柱のような形と、外見が幾何学模様のような独特の外壁だった。幼少の頃、悪いことをすると、よくここに連れて行くぞと言って両親に咎められたものだ。
下は消防署前の国道4号線の風景(昭和40年頃)
右上にあるのが「第2うすい」の展望台。中央やや上部のビルは「日本生命」。うすいのやや左側に観覧車の見えるビルは、第1うすいの南隣にあった「トミヤ百貨店」。
10 浄土松公園と旧三森峠トンネル
昭和40年頃に撮影した、浄土松公園の「きのこ岩」の写真と、同じ頃に開通した三森峠トンネルと、山頂付近から見下ろした急カーブが連続する峠道。これも貴重な写真。今は震災の影響が大きく、きのこ岩も崩落し、立ち入り禁止になっていて、岩に登ることは叶わない。さらに、三森峠も新道とトンネルが完成し、通行止めとなった。山頂のトンネルの真上には、ここで発掘された縄文土器を残そうと、その時代の住居を再現した学習施設を築いたが、今では過去の遺物と化してしまった。
11 レジャー施設(磐光グランドホテル&パラダイス、郡山レジャーセンター)
磐梯熱海町にあった大規模娯楽施設の「磐光パラダイス」。金粉ショーが売りだった。エスカレーターを昇った3Fにお座敷の舞台ホールがあって、そこで大物歌手がステージで公演した。また東隣りには高層ホテルの「磐光グランドホテル」があった。昭和44年2月に火災に遭い、31名という多くの人命が失われた。
「郡山レジャーセンター」は1967年3月に安積町の国道4号線沿いにオープンした遊戯施設。動物園や遊園地、ヘルスセンターを兼ね備えていた。或る写真集ではここを「郡山レジャーランド」と記載しているが、これも誤り。センターが正しい。現に私が数回訪れているので間違う筈がない。熱帯雨林のような屋内の造りに、万国旗が天井から四方八方に装飾されていた。また、屋外には植物園やミニ動物園があって、象が人気だった。また、園内に遊具があり、回転する飛行機や園内を一周するトレインの乗り物などがあった。ここでも痛ましい事故が起きた。昭和49年11月4日に羆にお菓子を与えようとした小4の女の子がクマに腕を食いちぎられたのだ。私と同い年だったので、他人事ではなかった。この事故以来、客足が遠のき、ここは閉園となった。今の「迎賓館グランプラス」がある場所にあった。
12 さくら通り周辺
昭和30年代後半の頃のさくら通り
まだ舗装されていない。現在よりも幅が広く、高いビルは皆無。右には私がよく買い物に訪れる老舗の酒屋さんがある。
昭和40年代初期の頃のさくら通り
懐かしい柳の並木が連なる。この写真は虎丸町を駅方向から開成山方面に向かって撮影したもの。左上には日東紡績第二工場の屋根が見える。右上の大きなビルは、1階が「青山製麺所」で、2階から上はマンションの住居部分だった。その裏手には旧安積女子高校の校舎が見える。
ザベリオ小学校(中学校・幼稚園併設)
現在のホテルハマツは、昭和60年頃までは「ザベリオ小学校」だった。西隣りに中等部を併設していた。裏手の東南角地には「ザベリオ幼稚園」があった。私の姉はここの卒園者だ。さくら通りに面しているため、校庭がやたら狭かった印象がある。
さくら通りはこの半世紀の中でもっとも変貌した通りだ。駅まで一直線の目抜き通りだけに、交通の要衝である。私の実家も虎丸町にあったが、駅まで歩いて15分という利便性の良さだった。
さて、今日の記事はいかがでしたか。50歳以上の方には懐かしかったのではないでしょうか。 私の亡き祖父は、市会議員を2期務め、長らく市の役員を務めるなど市の発展に貢献した。その一方で、カメラも趣味としていたため、郡山市内の様々な場所を記録写真として撮り収めていた。その関係で、祖父のアルバムには多数の昔の郡山の姿を残した写真が数多く収蔵されていて、その幾つかを市に提供した。それが市のガイドブックや観光案内にも使われているのだ。今日お送りしたのはほんの一部で、まだまだ貴重な写真がわんさかある。取捨選択して、誰が見てもわかりやすい場所を取り上げて行きたい。写真が集まって、編集が整い次第続編を作成してアップしたいと思います。それまでお楽しみに。
なお、幾ら探しても見つからないのが「郡山レジャーセンター」と「磐光パラダイス」の建物の外観と施設内部の写真で、どなたかお持ちの方がいればお知らせ願えれば幸いです。古き佳き時代の郡山の姿を後世に残していくことを趣旨として掲載したいと考えています。
記事作成:9月14日(日)
関連ブログ 「郡山の魅力再発見!⑥~郡山の今昔物語~」
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9245.html