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Channel: 時遊人SUZUのひとり言
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時代を牽引した日本の産業

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 日本人の卓越した科学技術や先端技術は、世界一だと思っている。特に手先が器用で細かい作業でも苦も無くこなす日本人の熟練の技や知恵、あるいはそれを提供する奉仕の精神も他の類を見ない。精密機械や金属加工な、ミクロな仕事を要求されるICチップや電気回路の極小化の技術は、外国人には到底真似できぬ分野である。自画自賛はこれくらいにして、今回のテーマについて語りたい。日本の産業界を見渡した場合、その時代背景や流行によって、隆盛を極めた業種が異なることに気付く。流行り廃りは産業にも当て嵌まるようだ。では各年代ごとに、どのような産業が繁栄したか、その変遷を辿りながら回顧したい。

 戦前(~1945年)・・・ 軍需産業・旧財閥系 

 戦時中は、鉄不足に陥るほど、武器の製造や軍艦、零戦製造などで鉄がもてはやされた。その昔、八幡製鉄所(後の新日本製鐵)、富士製鉄、日本鋼管などが最大手の鉄鋼業者として君臨し、日本の基幹産業として、あるいは新興の旗手として先導役を果たした。また、戦後、GHQによって解体された旧財閥だが、戦前は隆盛の一途をたどったことは言うまでもない。かつては「6大企業集団」と呼ばれ、強力な資本力にものを言わせ、日本の産業界や経済界、財界、更には政界までも牛耳っていた。「三井」「住友」「三菱」「芙蓉グループ(富士銀行・安田・森・一部の日産など)」「一勧グループ(古河・川崎など)」「三和グループ(日立・日産の一部など」)

 1950年代・・・軍需産業・鉄鋼業・石炭産業

 燃料を考えれば、蒸気機関車や暖房設備を思えば、「黒いダイヤ」として重宝されたのが石炭であった。化石燃料として重視され、北海道を始め、我が福島県には、常磐地方を中心に炭鉱が点在した。内郷、湯本界隈はまさに相当な賑わいだった。それは1960年代のエネルギー革命まで重工業として栄えた。SLがディーゼル機関車や電気機関車に道を譲った時期を考えれば一目瞭然だろう。

 1960年代…鉄道産業・映画産業・電器産業・建設産業

 ご存知「東京オリンピック開催」に伴う好景気によってもたらされた。「高度経済成長期」の走りで、戦後復興後、経済状態が回復し、人々の生活は劇的に改善された。郡山でも新産業都市に指定され、重化学工業(保土谷化学・日本化学)を中心に業績が上がり、経済状況がよくなった。また、オリンピック景気によって、五輪関連施設はもちろん、世界中からの観光客を収容するホテルなど空前の建設ラッシュが発生。首都高速開通や東海道新幹線建設、霞が関ビルなどの高層ビル、団地などの建設ラッシュとなり、建設業界は破竹の勢いだった。また、この時代は白黒テレビの開発・普及により、1950年代末から60年代初期にかけて、三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)や3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)の波が一般家庭に押し寄せ、庶民の生活は飛躍的に良くなった。また、テレビの普及まで、庶民の娯楽といえば「映画」だった。「大映」・「松竹」・「東映」・「東宝」・「日活」など大手映画製作会社が次々創設され、それぞれの所属俳優を映画に出演させた。公開オーディションや俳優養成所には多くの俳優志望者が殺到した。石原裕次郎・美空ひばり・小林旭・宍戸錠・吉永小百合・赤木圭一郎・加山雄三・上原謙などの昭和の大スターたちがスクリーンを華々しく飾ったのもこの時期だ。映画は金の成る木であり、豊富な資金から、プロ野球の球団経営に乗り出したのがこの映画会社だった。また、国鉄以外の私鉄の参入が相次いだのも1960年代後半から1970年代にかけてであった。「京成」・「東武」・「東京急行」・「京急」・「阪神」・「阪急」・「南海」・「西鉄(後に西武が買収)」などがそうで、テレビの普及で映画産業が衰退すると、プロ野球団を買収したのは、こうした鉄道会社だった。「阪急ブレーブス」「南海ホークス」「西鉄ライオンズ」「阪神タイガース」などこの時期の球団の親会社は接道関連だった。

 1970年代・・・自動車産業・家電産業・流通産業

 1970年代は高度経済成長の真っただ中にあり、池田隼人の「所得倍増計画」や田中角栄首相の「日本列島改造論」の経済政策の発動により、日本列島が高速交通網で結ばれ、物流や食品流通の分野で発達した。とりわけ、自動車産業はトヨタ、日産を中心に、本田技研、三菱自動車、富士重工、マツダなどの各メーカーが競い合うように発売した自家用車が飛ぶように売れた。一家に一台のマイカー時代ん到来である。それを煽るかのように、オシャレなCMも登場した。「ケン&メリーの愛のスカイライン」がその代表だ。また、ダイハツやスズキなどが軽自動車を開発し、道路には自動車が溢れ、工場から出る煙と合わせ、首都圏を中心に騒音や光化学スモッグなどの大気汚染、水質汚濁などの公害問題が深刻化したのもこの時期だった。今の中国のPM2.5などは40年前の日本を見ているようで、健康被害が懸念される。当時の人気車種は、スカイライン、コロナ、セドリック、グロリア、プリンス、クラウン、セリカを始め、大衆車でもカローラやサニーなどが街角ではいくつも見られた。小林旭の自動車唱歌に出て来る懐かしい車たちだ。また、スポーツカー「フェアレディ」や「コスモスポーツ」、日本で初めてロータリーエンジンが搭載された「RX-7」が登場し、若者たちのマイカーブームの火付け役となった。
 ファッションではベルボトムやパンタロンにブーツ、長髪が街を闊歩したし、その後恋人同士のペアルック、VANやポパイのトレーナーなどが流行ったし、トラッドが大流行した。ファッション誌は「POPYE」と「HotDogPress」がファッションリーダー役を果たした。

 さらに、この年代を彩った産業には、百貨店や大手スーパーなどの流通業界が欠かせない。何でも揃う夢のデパートを売り文句に、首都圏だけでなく、地方都市にも進出した。郡山市にもスーパー「ヨークベニマル」が登場し、年々店舗を増設し、事業を拡大していった。最初は、桜通り沿い虎丸にあった「さくら通り店」が第一号店で、その隣には必ず東邦銀行があった。また、1970年代に入ると百貨店の競争が激化した。それまでは「うすい」と「津野呉服店」だったが、首都圏の大資本の「西武百貨店」、「ダイエー」「丸井」が昭和52年頃に相次いで参入した途端、競争が激化し、大掛かりな値引き合戦が展開された。

 1980年代・・・金融業界(証券・銀行・保険・サラ金・クレジット信販)・レジャー産業・
           物流業界・飲食産業・風俗産業・貿易関連産業ほか

 この時代の中頃に突如出現した「バブル景気」により。空前の好景気に賑わうことになる。株価は3万円を突破し、金利は上昇。銀行金利は一時7%にも跳ね上がった。100万円を1年間預ければ、107万円になった時代だった。円高が進行し、空前の海外旅行ブームやスキーブームを創出した。
 まずは、金融業界は株価急上昇により、買い手が殺到。国や地方公共団体が経営してきた企業や特殊法人が相次いで民間企業に改組された。これにより、国鉄や電電公社、専売公社などのが民営化され、NTT株が一時一株300万円を超えるなどの値をつけた。JRもまた、各ブロックごとに分割民営化された。専売公社も日本たばこ産業(JT)となり、民営化や規制緩和の波が加速した。収入が増え、一般庶民の暮らしもよくなり、消費はスパイラル状態となり、金の回転が良くなった。銀行業界は、各会社やメーカーへの財政投融資を増やし、設備投資が容易になった。地方もまた箱ものを次々建設。日本生命・第一生命・朝日生命・明治生命・富国生命などを中心に保険業界も潤った。また、この頃には金のめぐりが良くなり、サラ金(後の消費者金)も次々出現した。アコム・アイフル・プロミス・レイク・武富士などがそうだった。各信販会社がこぞってクレジットカードを市場に投入。アメリカンエキスプレス(ゴールド)、VISAカード、ミリオン、ニコス、JCBカードなどが登場。プレミアカード(ゴールドカード)を所有することが一種のステータスであった。また、ファッションやブランド品が売れに売れた。シャネル、グッチ、バレンチノ、クリスチャンディオール、ロレックス、ルイヴィトン、エルメスなどのバッグや時計、財布などが飛ぶように売れたのもこの時期だった。
 また、この頃には宅配業者も登場した。クロネコヤマトの宅急便、日通のペリカン便、佐川急便、赤帽などがそうだ。そして外食産業も一気に急増。居酒屋チェーン「つぼ八」「村さ来」などを始め、オシャレなビアガーデンやビヤホールが相次いで登場。バドホールなどもあった。イッ気飲みやコンパが流行ったのもこの時期だ。また、お立ち台などのジュリアナやマハラジャなどのディスコも登場し、若者を中心に週末は大変な賑わいを見せた。そしてAVが登場したのもこの頃で、VHS方式のレンタル店があちこちに建設され、お色気むんむんのAV女優(代表的なのは八神康子、小林ひとみ、桜樹ルイなど)にお世話になった方も多いのではないだろうか。また、キャバクラやテレホンクラブが登場。歌舞伎町や吉原から全国に飛び火した風俗関連産業が全国に展開された。その情報の発信は新宿であり、テレビでも「11PM」や「トゥナイト」、「独占大人の時間」「テレビ海賊チャンネル」が深夜の時間帯に放送された。「イメクラ」「ソープ」「ファッションマッサージ」「ノーパン喫茶」「のぞき」「おさわりバー」「キャバクラ」「デートクラブ」「愛人バンク」などありとあらゆるジャンルが登場した。また、レジャー産業は花ざかりだった。ビリヤード台を備えたプールバー、武豊の出現と名サラブレッドを輩出して競馬ブームが生まれたり、カラオケボックスやパチンコ業界も躍進した。そして家庭用ゲーム機が開発されたのもこの時期で、ファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイ、DS、プレステなどのゲーム機を次々生み出した。
 さらに、この時代に流行したのは特ダネを競い合うように創刊した写真週刊誌だった。その筆頭は「FOCUS」と「FRIDAY」、後に廃刊になった「エンマ」など次々発売された。芸能人のゴシップネタや政治家のスキャンダルなどを鋭く抉った。音楽業界では、横浜銀蠅のツッパリブームやなめ猫ブーム、竹の子族も時代を彩った。歌謡界は松田聖子のぶりっ子や聖子ちゃんカットが大流行し、男性アイドルは「たのきんトリオ」ブームで、後に「チェッカーズ」旋風が吹き荒れた。

 また、この時代は、好景気を反映して日本企業がアジアを中心に外国に進出した時代だった。企業戦士なる言葉が生まれ、人件費が安いことから海外に工場を数多く建設し、日本の技術を輸出した。日米貿易摩擦という言葉のように、日本は精巧な自動車輸出を中心に貿易により、膨大な黒字を溜め込んだ。そのかじ取りをしたのは商社である。三井物産、三菱商事、住友商事、日商岩井、伊藤忠商事、丸紅などの大手商社が、この分野をリードした。
 また、首都圏を中心に土地代が急騰。地上げ屋が横行し、都心に一戸建てを持つことはもはや不可能で、都心のマンションですら「億ション」と呼ばれた時代だった。この好景気によって、大規模なリゾート開発も相次いだ。各地に巨大アミューズメントパークを建設。東京ディズニーランド、ハウステンボス、USJなどテーマパークが完成した。「私をスキーに連れてって」の放映により、空前のスキーブームと4WDブームが生まれ、深夜発着のスキーバスでスキー場へ日帰りするツアーも大人気だった。新幹線沿線にはオシャレなゲレンデを開発していった。GALA湯沢やキャプテン加山スキー場などがいい例だ。またペンションやホテル業界、更には観光・旅行業界も賑わった。しかし、この時代は、まだ通信機器は、携帯用の移動電話は大型の肩掛け式の送受信機で持ち運びが不便な代物。自動車電話やコードレステレフォンがやっと登場。ポケベルが女子高生に大人気となった。

 このように、この時代はバブルのように資本が湧いて金のめぐりが良い絶好景気だった。日本人はいつまでもこの景気が続くと夢を見すぎてしまった。そのツケがバブル崩壊後、90年代以降の長引く不景気だ。

 1990年代・・・IT産業・通信産業

 この10年間は「バブル景気」のツケを払わされた経済面では暗黒の時代だった。唯一景気が良かったのはポケベルから技術開発が著しい通信産業だった。つまりは移動電話や自動車電話から携帯電話やPHSの登場である。PCが各家庭に普及し、インターネットが開発され、家にいながらネットショッピングや様々な情報を入手できる優れもの。ハイテクという言葉が生まれ、手のひらサイズのビデオカメラやデジカメなどいわゆる「デジタル家電」開発と流通の波が押し寄せた。特に携帯電話の普及は目覚ましかった。今やひとり1台の時代だ。メールもまた画期的だった。相手の状況に関わりなく、一方的に連絡やメッセージを送れる。高校生を中心に大流行した。そして各地に24時間営業の漫画喫茶やネットカフェが登場した。街角には「プリクラ」が登場したり、たまごっちが流行した。つまりあまり金のかからない倹約的な遊びやブームだった。ファッションではルーズソックスが大流行した。

 2000年代・・・健康・美容&医療機器産業・通販産業

 この頃は、ノストラダムスの大予言やハレーすい星ブーム、そしてミレニアム問題などが沸き起こった。それを経て、空前の健康ブームが起きた。痩せるせっけん、サプリ、健康茶、アロマテラピー、健康マッサージ、韓国式あかすりなどが代表格だ。2002年のサッカーW杯日韓共催や韓流ドラマの上映を皮切りに、ちょっとした韓国ブームが起きた。また、低周波治療器や鍼灸、ダイエットブーム、ビリーブートザキャンプなどのエアロビクスも隆盛を極めた。「あるある大事典」などの影響で、○○式ダイエット、サプリで自分の健康状態を維持する方、ジョギングやウォーキングブームも起きた。また田舎暮らしや自給自足を実践するガーデニングや家庭菜園も流行した。経済状態にかかわらず、いつの時代も「衣食住」は普遍的のもののようだ。そんなに流行り廃りはない。また、この時代も倹約が流行った。民主党政権が政権交代に成功し、政権奪取し、改革を断行した。無駄を徹底的に省く政策を次々実行。事業仕分けで公共事業を見直し、「八ッ場ダム」建設中止を打ち出したりした。また、テレビショッピングや実演販売、カタログショッピングなどは景気が良かった。その最たるものはジャパネットたかた、トーカ堂で、セシール、日本直販、良品生活、無印良品もまた宣伝広告費を費やし、業績を伸ばした。またPC利用のネットショッピングやオークションも流行した。
 また、この時期は世界経済は最悪だった。ギリシャで財政危機が発生し、EU全体に悪影響を与え、リーマンショックでは不良債権が発生し、多重債務に陥り、多くの企業が経営統合や吸収合併で生き残りを図った経緯がある。あの山一證券が潰れるとは思わなかったし、大手銀行が経営破たんに追い込まれるなど誰が想像できただろう。今や都市銀行も再編され、4代金融グループや旧財閥ですら経営協力を厭わない。三井住友グループ、みずほフィナンシャルグループ、三菱東京UFJグループの3大メガバンクグループと化してしまった。かつて第一勧銀を中心とした銀行業界も生き残りに必死である。

 2010年代・・・復興関連産業

 2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は国家の危急存亡の時であった。特に、東京電力福島第一原発を襲った大津波により、全電源喪失、メルトダウン発生、2度にわたる水蒸気爆発により、放射性物質が地上に放出。汚染水流出も起き、福島県の農林水産業は再開の目途すら立たない。浜通りの方々の大半が避難し、郷里を離れての仮設住宅での暮らしを余儀なくされた。このような危機的状況で、復興関連業種は潤っている。除染業者と建築メーカーだ。津波などで家を流されたり、岩手県界隈の港町では壊滅状態に陥り、その復旧や復興を支える建設業界がちょっとした建設バブルをもたらしているという。産業廃棄物業者もまたフル操業状態だという。このあたりに経済回復の手がかりがありそうだ。

 さて、戦前から21世紀を迎えた現代社会までの変遷を見てきたが、今後を考える場合、やはり言いたくはないが、日本だけでの内需拡大は所詮限度がある。輸出黒字で外貨を獲得することが手っ取り早い経済再興策である。かつては精密機器や自動車産業の輸出で潤った日本経済。やはり画期的な新技術の開発により、世にないような便利な生活用品なり、家電製品なりを開発して商品として売り出し、爆発的な需要と売上を獲得するしか方法はない。日本は発想の転換と世にないものを生み出すことにかけては天才的である。したがって、新たなアイディアで、世界的に売れる大発明や飛躍的に生活が便利になったり生活状況が大幅に向上するような画期的な商品を製作・販売して大ブームを生み出すしか道はない。幸い、その旗振り役の手本として「リケジョ」の小保方晴子さんが「STAP細胞」で先陣を切ってくれた。こうしたたゆまぬ努力と研究開発で新しい道を切り開いていくことが大事で、日本人に課せられた責務だと思っている。

 <参考資料>

 1 「日本企業の歴史と考察」 http://homepage3.nifty.com/54321/kigyou.html

 2 「有力企業集団変遷図」 http://homepage3.nifty.com/54321/kigyouhensenzu.html

 記事作成:2月6日(木)


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