今日はオジさん世代にはたまらない珠玉のフォーク三人衆を記事にしたい。おそらく五十路前後の方々には青春時代を思い出すような、そんな懐かしい歌声と美しいメロディラインが胸に焼きついていて、厭が応にも若かりし頃のひとコマひとコマが、映像として蘇って来るに違いない。そんな青春群像を彷彿させる名シンガーたちが奏でた名曲をどうぞ!
村下孝蔵 「初恋」
名曲「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などを生み出したヒットメーカー。若かりし頃の想い出に触れるような甘酸っぱさが溢れ出てきそうな歌詞が同世代の方々の共感を呼ぶ。「好きだよと言えずに初恋は~」という歌詞が見に詰まされる。あの時、周囲を気にせず、傷つくのを恐れず勇気を振り絞って彼女に告白していたら、今頃どうなっていただろうと考えることがある。そんな時代の感傷に浸ることを禁じ得ない状況にしてしまう歌詞だ。
1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。葬儀は6月26日に営まれた。夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられた。7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。血液型はO
河島英五 「酒と泪と男と女」
他にも男にはグッとくる名曲を多く世に遺した。「野風増」、「時代おくれ」は琴線に触れるし、心の奥底にビンビン響いて来る。彼の嘘偽りのない、ストレートな歌声は何か心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われる。
男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている。若いころにギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島英五の音楽の礎を築いている。内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で唱いあげる姿、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴。
コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。
長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日、肝臓疾患のため急逝した。亡くなる2日前にライブに立ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ息を引き取った。告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から「英五」の連呼が起こった。自身のヒット曲「野風増」の歌詞には、息子が20歳になれば2人で酒を酌み交わしたいという内容があったが、河島本人は歌詞通りに息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。48歳という若さでこの世を去ってしまったが、彼の遺した楽曲は、世代を問わず魂の歌として歌い継がれている。血液型はB
永井龍雲「道標ない旅」
彼の持ち味はなんといっても天性の高音ボイス。透き通るような美声でいとも簡単にあんなに高い音域まで届く。彼の代表作は「道標ない旅」。
1978年に「想い」でデビュー。1979年5枚目のシングル「道標(しるべ)ない旅」がCMソング(グリコアーモンドチョコレート)効果もありスマッシュヒット。1989年五木ひろしの「暖簾」の作詞で第22回日本作詞大賞「優秀作品賞」受賞。
現在、沖縄県在住である。母の故郷は鹿児島県大島郡瀬戸内町で、奄美大島で数回コンサートを開くなど、当地にゆかりのある人物でもある。血液型はA
さて、昭和を代表するフォークシンガーを取り上げましたが、今となっては時の流れと共に、昔懐かしいとか、時代遅れの古い曲と受け取られそうだが、どこか心に響き渡る名曲と言えるだろう。もちろん彼ら以外にも、昭和を代表するような名シンガーは人それぞれにあると思うが、個人的趣味だが、この三人だけは私は外せない。もうお二人は天国に旅立たれしまい、新曲を待つことはできないが、彼らの遺した曲を私たち世代が後世へと語り継いでいかなければならないし、歌い継いで行くことが、こんなに素晴らしい名曲を世に送ってくれた彼らへのせめてもの恩返しのように思えてならない。
記事作成:10月5日(水)